其十一
佐伯が駆け落ちし、仕事場が忙しくなったが、新しく人手を募集し、何とか旅館の中が通常の状態に戻った頃、環世はあることを始めていた。
最初はそのつもりがなかったが、ある仕事帰り、ふと目についた文房具屋に立ち寄ったのだ。この町には文具屋はそこしかなかったが、人はあまり来ている様子はなかった。年寄りの男性が営んでおり、文房具屋というよりは、下町の調理器具の卸しの店のような内装だった。環世は仕事で使うメモ帳とペンの補充のつもりだったが、何となく、そこに原稿用紙があるのに目が惹かれた。三十枚程度が入ったものをペンとメモ帳と一緒に買い部屋に戻った。潮風が運んでくる、プランクトンの死骸の混じった磯臭さが、鼻をかすめて行く帰り道、海と登る月を見上げながら、彼女は何か一つ、自分でも書いてみようと思ったのだった。
小さい頃より、物語を読むことが唯一の彼女の拠り所だった。公子に会ってからも、自分の仕事で貯めたお金で少しずつ本を買い、貧しいながらも、他の人以上には読書をした自負が彼女にはあった。何かアイデアがあるわけでは無かったが、原稿用紙を手にしてから、彼女は空いている時間にコツコツと書き始めたのだった。それが、彼女にとってのもう一つの救いになるとはこの時はわからなかった。
初めに原稿用紙に向かった時は、書き方もわからなかったので、日記のような、随筆のようなものを書いた。その時に仕事や海を見て感じたことなどを短い文章でまとめたり、時には原稿用紙を何枚も使う大作もあったり、人に見せるつもりもなく、只々、吐き出すように紙に書き付けていった。
単語を一つ出すたびに、自分から生まれてきたような喜びが、彼女をある種の快感に導いていた。いくつか、海をみながら思いついた短歌などもあったが、それは後で見返して、ひどく恥ずかしく思って捨ててしまったものもあった。
その内、彼女は日記のような随筆に物足りなさを感じ、何か物語は書けないだろうかと思うようになった。そして、その頃から彼女は旅館で会う客や従業員に積極的に声を掛けるようになり、何か文章の種になるものはないか、という探求の日々が始まって行った。それは、他人にほとんど興味のない環世だったが、それによって自分を深く理解できるかも知れないと同時に感じていたからだった。公子の部屋で見た表情のない自分、蝶を踏みつぶした自分、仮面を付けて卒なく日々を越える自分、どれが本当の彼女なのかを知るためには必要なことに思えたのだった。
そんな日々を過ごしている時、休憩のあいまにタバコを吸っていると丸山がやってきた。環世は彼にタバコを教わって以来、時々喫煙所で吸うようになっていた。彼ともそのせいで話す機会が多くなっていた。
丸山は環世のことをあまり、聞かず、自分のことをよく喋った。ほとんどは、彼の仕事の愚痴だったが、どこかユーモラスで哲学的な視点の語り口は、不快な感じがしなかった。愚痴に対しても同意を求めるというよりは、少し内省的な結論に至るので、そのプロセスを聞いているのが面白くもあった。そして、丸山は彼女のことを聞くときも仕事以外のことは、ほとんど聞かなかった。それが環世には気楽で、丁度よい心地よさだった。
丸山の仕事はマネージャーとして旅館内を右往左往しながら、全体で足りないものや困りごとがあると対応するのが、主な仕事のようだった。他にも営業や大口の取引なんかも任されていたようとだが、詳しくは喋ることはなかった。
女将やオーナーの手前、自分で目立つようなことはしなかったが、彼の機転がなければ、乗り越えられないような局面も見てきたので、仲居の中には彼のことを密かに思っているようなのも多いのではないか、と環世は感じていた。彼女は、男に対しては不信感があったので、たとえそうであったとしても丸山に何か感じるということはなかった。
今、こうして一緒にいても、心のどこかではきちんと境界線を引いている。話しやすさや面白さ、それだけでは、彼女の中の男という生き物への疑いの心は溶けないのだった。どちらかというと今、丸山と話しているのは、自分の心を知るための研究材料にするためだけ、なのだった。
しかし、薄く赤い唇から立ち昇る煙が蜘蛛の巣のように天井に広がり、その煙の出先を見つめる丸山の視線に、特別の意味が込められているとは、環世はまだ気づいていなかった。
※この作品はフィクションであり、実際の人物や団体とは関係ありません。
時代背景を描写するために、未成年の喫煙や飲酒のシーンが登場することがありますが、喫煙や飲酒を推奨するものではありません。ご了承ください。
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