家庭と職場に絶望した40代教師、異世界で拾った孤児の少女を育て始めたら、俺も彼女も規格外の英雄になっていく

坂下 卓

第1章

第1話 プロローグ① - 死の匂い

 死の匂いがした。


 カビと湿った土が混じり合ったような、澱んだ空気。その奥に潜む、微かだが明確な腐臭。それは、命がただ無機物へと還る過程のそれとは異質の、もっと生々しい獣の匂いを伴っていた。


 俺は壁に背を預け、荒い呼吸を必死に押し殺す。心臓が肋骨の内側で警鐘のように鳴り響き、その音だけで己の居場所を告げてしまいそうだった。


 ぽつり、ぽつりと一定の間隔で天井から滴り落ちる水滴の音だけが、この静寂が偽りであることを証明している。手にした剣の、ずしりとした鉄の感触がやけに冷たい。なけなしの金で手に入れた安物だ。剣道で握り慣れた竹刀のそれとは、重さも重心も、そして何よりその意味も全く違う。


 これは、競技のための道具ではない。命を奪うための、ただの鉄塊だ。


 その事実が、喉の奥に鉛の塊となってつかえている。俺は教師だった。生徒たちに言葉を教え、人の道を説き、命の尊さを語ってきた。その俺が今、この薄暗い迷宮の片隅で、殺意という名の毒に全身を蝕まれながら息を潜めている。


 理由は一つ。生き延びるためだ。


 角の向こうから、引きずるような足音と、喉を鳴らすような不気味な声が聞こえる。間違いない。奴だ。この迷宮の最下層に巣食う、ゴブリンと呼ばれる魔物。


 俺は唾を飲み込み、ゆっくりと盾を構え直す。これも粗末な木製の盾だ。気休めにしかならないかもしれないが、無いよりはましだろう。思考が、恐怖とは裏腹に妙に冷静になっていく。教師としての性分か、あるいは極限状態に陥った人間の自己防衛本能か。


 敵は一体。武器は棍棒のようなもの。体躯は俺より一回りは小さいが、筋力はこちらを上回る可能性が高い。知能は低いと聞くが、油断はできない。


 足音が、すぐそこで止まった。


 息が詰まる。壁の向こう側、ほんの数メートルの距離に、死が立っている。


 どうするべきか。ここで待ち伏せ、奇襲をかけるか。いや、この視界の悪い通路で先制攻撃は悪手だ。ならば、奴が姿を現した瞬間を叩くしかない。


 覚悟を決め、剣を握る柄に力を込める。手のひらにじっとりと汗が滲んだ。


 ぬるり、と。

 緑色の醜悪な頭が、通路の角から姿を現した。爛々と光る濁った眼が、暗闇の中で獲物を探している。長い耳がぴくりと動き、鼻がひくついた。


 獣じみた嗅覚が、俺の存在を捉えたのだ。


「グルゥ…」


 低い唸り声と共に、奴の口角が吊り上がる。それは、紛れもない嘲笑だった。人間を、ただの食料として見下す、捕食者の笑み。


 その瞬間、俺の中で何かが切れた。恐怖も、教師としての矜持も、人としての罪悪感も、すべてが思考の彼方へと追いやられていく。


 ゴブリンが、棍棒を振りかぶりながら突進してくる。


 速い、とは思わない。だが、重い。一撃でも食らえば、骨が砕けるのは想像に難くない。俺は剣道の基本に立ち返り、半身に構えてその一撃を待った。


 風切り音。


 振り下ろされる棍棒を、盾で受ける。いや、受け流す。衝撃を真正面から受け止めては、体勢を崩されるだけだ。


 ガンッ、と硬い音が響き、腕に痺れるような衝撃が走った。盾の表面がみしりと嫌な音を立てる。だが、防いだ。


 がら空きになった胴体へ、俺は持てる限りの力で剣を突き出した。


 手応えは、鈍かった。肉を切り裂くというよりは、分厚い獣皮に阻まれたような感触。ゴブリンが苦悶の声を上げ、後方へ飛び退く。


 浅い。致命傷には程遠い。


 奴の緑色の肌には、赤い線が一本走っていた。そこから滲み出る血を見て、俺は初めて、自分が生物を傷つけたのだと実感した。胃の腑がひっくり返るような不快感が込み上げる。


 しかし、感傷に浸る時間はなかった。傷を負ったゴブリンは、痛みでさらに凶暴性を増している。その濁った瞳に宿る殺意が、先ほどよりも濃く、粘着質なものに変わっていた。


 再び、奴が地を蹴る。


 今度は、ただの力任せの攻撃ではない。左右に揺さぶりをかけ、こちらの的を絞らせない動き。こいつ、戦い慣れている。


 棍棒の連撃を、盾と剣で必死に捌く。一撃一撃が、腕の骨に響いた。防戦一方。このままでは、いずれ体力が尽きて押し切られる。


 どこかに、隙はないのか。


 教師として生徒を観察するように、俺は目の前の敵を分析する。動き、呼吸、重心の移動。その全てに意識を集中させた。


 そして、見つけた。


 奴が右に大きく踏み込み、大振りの一撃を放った瞬間。その脇腹が、ほんの一瞬だけ無防備に晒される。


 賭けだ。


 俺は盾を捨てるように手放し、両手で剣を握りしめた。がら空きになった身に、ゴブリンの棍棒が迫る。


 だが、それよりも速く。

 俺は奴の懐へ踏み込み、剣を薙ぎ払った。


 ザクリ、と。今度は確かな手応えがあった。肉を断ち、骨を砕く、生命を刈り取る感触。


 ゴブリンの動きが止まる。その濁った瞳が、驚愕に見開かれたまま俺を映していた。口から赤い泡を吹き、ゆっくりと膝から崩れ落ちていく。


 どさりと、肉の塊が床に転がった。

 静寂が戻る。残されたのは、俺の荒い息遣いと、鉄錆のような血の匂いだけだ。


「はぁ…っ、はぁ…」


 膝に手をつき、こみ上げてくる吐き気を必死にこらえる。殺した。俺が、この手で。

 震える手を見つめる。この手は、チョークを握り、生徒のより良い未来へ導くためのものだったはずだ。それが今、異形の血で汚れている。


 それでも、生き延びた。その事実だけが、唯一の救いだった。

 必ず帰る。娘の待つ、あの世界へ。その誓いを、改めて心に刻む。


 その時だった。


 背筋に、ぞわりと悪寒が走った。殺気。先ほどのゴブリンが放っていたものとは比べ物にならないほど、濃密で、冷たい殺意。


 すぐ、背後。


 振り返るよりも早く、腐臭をまとった生温かい呼気が、うなじにかかった。


「グルルァ…」


 地獄の底から響くような、低い唸り声が耳元で聞こえた。

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