第五章:それぞれの道へ

あの日、駅前のドーナツ屋で交わした言葉は、薄れゆく記憶の中で、なぜか鮮やかに残っている。

「信じてるよ」

千穂がそう言ったとき、奏汰の心の中に灯ったのは、小さな希望だった。

その後、奏汰はもう一度だけ追試にかかった。

けれど、それが最後だった。

講義の内容が急に理解できるようになったわけではない。

暗記が得意になったわけでもない。

ただ、「自分にはできない」という呪いのような思い込みを、少しだけ外すことができた。

「大丈夫だよ」

その言葉を、誰かが本気で信じてくれた記憶が、心の奥に残っていた。

目の前のページを、一行ずつ読む。

頭に入ってこなくても、めげずに読み直す。

教科書の端に書いたメモには、意味のない走り書きも混じっていたけれど、それでも、手は止まらなかった。

いつからか、勉強に対する感情が「苦しみ」から「責任」に変わっていた。

それは、誰かの期待に応えるためではなく、自分自身に恥じないためだった。

そして、迎えた卒業の日。

家族が祝福してくれた。

祖母は「やっぱりこの子はやると思ってた」と目を細めた。

けれど奏汰の心の中では、もう一人、忘れられない誰かの姿が浮かんでいた。

千穂とは、それっきり会っていない。

あの約束——30歳になってお互い独りだったら結婚する?——も、もう冗談として過ぎ去っていた。

千穂はきっと、誰かと出会っているだろう。

あの笑顔と誠実さがあれば、恋も、仕事も、人生も、きっと豊かに進んでいるに違いない。

——そう思うことで、奏汰は自分に区切りをつけた。

研修医として働きはじめた病院で、奏汰はある女性と出会った。

透析室の臨床工学技士。

真面目で、まっすぐで、どこか千穂に似ている笑顔の持ち主だった。

何度かぶつかり、別れ話が出たこともあった。

それでも、いまも関係は続いている。

仕事は忙しい。

命を扱う現場で、感情を置き去りにする日もある。

でも、ふと立ち止まったとき、心のなかに蘇る言葉がある。

「奏汰って、ほんとに賢いんだよ」

「信じてるよ」

あれは、優しさだった。

けれど、それ以上に「光」だった。

自分が何者かもわからなくなったとき、道を見失いそうになったとき、

思い出すのは、ドーナツと、カフェラテと、千穂の声だった。

検索してみようと思ったこともある。

名前を、SNSで。

けれど、その手はいつも止まってしまう。

記憶の中にいる千穂は、きっとあの日のままだ。

ドーナツ屋で、まっすぐに目を見て、「信じてるよ」と言ってくれた。

——それだけで、じゅうぶんだった。

人生は続いていく。

記憶とともに、今日を生きる。

誰かに、信じられた自分を、今度は自分が信じる番だ。

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