第四章:ドーナツ屋で

大学に入って数年。

再びの偶然は、駅前の家電量販店で起きた。

レジに並び、会計を待っていた奏汰は、ふと名前を呼ばれて顔を上げた。

「奏汰?」

そこに立っていたのは、千穂だった。

インカムを耳にかけ、制服姿でにっこりと笑っている。

「ひさしぶりだね!……元気?」

その声は、変わっていなかった。

入学式の日に会って以来。おそらく3年以上、何のやりとりもなかった。

「……ああ、なんとか。」

口をついて出た言葉は、それだけだった。

本当は、なんとかじゃなかった。

奏汰は、医学部の専門課程に入ってから成績が落ち込み、留年も経験していた。

情報の羅列のような講義、覚えるだけの学習、圧倒的な暗記量。

どんなに努力しても成績は伸びず、自信だけが剥がれ落ちていった。

「就活終わって、いまここでバイトしてるの。……今度、遊びに行こうよ。週末なら空いてるし、ここの隣にドーナツ屋あるでしょ?時間は後でメールするから!」

そう言って、インカム越しに呼ばれた千穂は、手を振ってレジに戻っていった。

取り残された奏汰は、胸の奥で何かがかすかに動いたのを感じながら、ただ「……2時間くらいなら」とつぶやいた。


週末。

ドーナツ屋の奥のテーブルに、奏汰と千穂が向かい合って座っていた。

奏汰は定番のドーナツを2つ、カフェラテを注文した。

千穂は、真剣に迷った末、少し珍しいフレーバーを選んでいた。

「最近、どうしてるの?」

先に口を開いたのは千穂だった。

「……勉強してるよ。バイトもサークルもやめた。いまは単位とらなきゃって、そればっか。」

奏汰の声は、どこか乾いていた。

「奏汰って、すごく賢かったじゃん。あんなに模試で上位だったのに……そんなに難しいことある?」

「思い上がってたんだと思う。昔の自分を、勝手にすごいって思ってて……」

自分の殻に閉じこもるように語る奏汰に、千穂は胸が痛くなった。

あの頃、昆虫に夢中になっていた瞳は、どこにいってしまったんだろう。

千穂は、いくつかの話題を投げかけてみた。

就活のこと、量販店でのバイト、中学の同級生と会わなくなったこと、別れた彼氏のこと、居酒屋で3ヶ月しかもたなかったこと。

笑って話すけれど、奏汰はどこか遠くを見ているようだった。

「また来週、会おうよ」

そう声をかけた千穂に、奏汰は少しうつむきながら「わかった」とだけ答えた。


翌週、同じ席。

同じようにドーナツを頼み、向かい合った二人。

「追試、終わったけど……ダメだったかもしれない。もう俺、卒業できないかも」

かすれた声で、奏汰が呟いた。

「こんな俺でごめん。千穂も忙しいでしょ。もう、俺のことはいいから」

千穂は、なにかを言おうとして言葉に詰まった。

励ましの言葉が、逆に重荷になってしまうかもしれない。

「大丈夫」と言ってしまえば、それは無責任に響くかもしれない。

「……ドーナツ、食べようよ」

ようやくしぼり出した言葉は、あまりにも拍子抜けだった。

けれど奏汰は、その言葉に素直に従った。ドーナツを手に取り、カフェラテを一口飲んだ。

「私さ」

千穂は、小さく切り出した。

「奏汰のこと、心配してる。でも、信じてもいるんだよ。奏汰って、ほんとに賢いんだよ。昔から。

なのに、自分を責めて、つぶれそうになってるの、変だよ。」

奏汰は、黙って聞いていた。

そして、小さく鼻をすする音が聞こえた。

頬に、ひとすじ、涙が流れていた。

「……ありがとう」

ようやく、声が出た。

そのあとは、他愛もない話をした。

好きな人に振られたこと、バイト先の話、そして30歳になってお互い独りだったら結婚する?という、ちょっとした冗談。

それだけで、少し笑えた。

奏汰は、まだ迷いの中にいた。

でも、あの日ドーナツ屋で、確かに何かがほどけた。

奏汰は、その後、なんとか卒業を果たした。

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