エピローグ『名もなき花に水を』

エピローグ:名もなき花に水を

​五年の歳月が、鮮血の記憶を白く塗り潰した。

​男(元刑事)は、紙の墓標に囲まれた一室で、コップの水を替える。

透明な液面が、微かな振動に揺れる。かつて自身の網膜を焼いた「赤」の残像は、いまやこの無色透明な水底に沈殿し、静かに眠っている。

男は、その水を飲むことはない。ただ、捧げる。自身の肺を侵したあの香気が、いつかまた蘇る日のための、儀式のように。

​異国の石橋。

かつて「花」そのものであろうとした医師は、白手袋を脱ぎ捨てた指先で、タンポポの茎を折る。

指先に付着する、粘り気のある乳白色の液。それは、彼がかつて愛した、生を拒絶する「銀の旋律」とは正反対の、泥臭い生の重みだった。

「……美しいな」

頬の筋肉が、不器用な歪みを作る。それは微笑というよりは、新しい皮膚が馴染むのを拒む、微かな拒絶のようでもあった。

​海辺の街。

少女(華)は、アスファルトの裂け目に咲く、名もなき白に水を注ぐ。

渇いた土が、音を立てて水分を吸い込み、濃厚な「土」の匂いを立ち上がらせる。

少女の瞳には、もはや四百年の宿願はない。

だが、彼女が水を注ぐたび、その指先は微かに震える。それは、土の下に眠る無数の「種」たちが、彼女の体温を求めて一斉に脈打つような、不可視の共鳴。

​呪いは終わったのではない。

ただ、土へと還り、次の季節を待っている。

​男(元刑事)は、窓を開ける。

風に乗って運ばれてくるのは、初夏の陽気ではない。

数千の「土」たちが、その肉体を突き破って咲き誇る日を夢見る、静かな、しかし確かな胎動の匂い。

​空はどこまでも青く、そして、あまりに静かだった。

次の「赤」が、世界を染め上げる、その一瞬前のように。

​【終】

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『人斬り花、土なくして花は咲かず』 志乃原七海 @09093495732p

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