第四話:反逆する医師、前
第四話:反逆する医師
それは、あまりに完璧な「作品」だった。
白亜の隔離病棟。守護されるべき老いた肉体は、傷一つなく、ただ静かにその機能を停止させていた。機械の咆哮(アラーム)も、設定の齟齬もない。ただ、神の見えざる手が指先を弾いたかのように、心拍の旋律が途絶えた。
男(刑事)は、その「死の静寂」に、これまでの事件とは異なる、より純度の高い狂気を嗅ぎ取った。
視線の先にいたのは、一人の医師だった。
二十代後半。白衣という名の衣を纏ったその姿は、血肉を持たぬ彫像のように端麗だった。彼の瞳の奥には、慈悲ではなく、自らの指先で世界を「再編」しようとする、傲慢なまでの冷たい炎が宿っている。
「……調律が、お気に召しませんでしたか?」
病院の奥底、無機質な面会室で医師は微笑んだ。その声は、鼓膜を薄く削るような鋭利な響きを持っている。
男は、医師の指先がかすかに動くのを凝視した。それは、目に見えぬ「銀の心臓」のリズムを支配する、タクトを振るような動き。
「お前が、あの男の鼓動を盗んだのか」
「盗んだ? いいえ。わたくしはただ、醜悪に喘ぐ肉塊に、最も相応しい終止符を与えただけです。肺胞が一つずつ冷気に同化していく、あの至福の瞬間を。……あなたには、理解できないのでしょうが」
医師の指先から伝わる、異常なまでの欠温。
男は、自身の背骨を氷の楔(くさび)が貫くような感覚に襲われた。これは正義や悪の論理ではない。捕食者が獲物を、あるいは芸術家がキャンバスを支配する際の、生理的な快楽だ。
――数日後、深い闇の底にある独房。
男が対面した医師は、光のない空間にあっても、なお自身の内側から発光しているかのように凛としていた。
「一つだけ。なぜ、お前の手元には『赤』がなかった?」
これまでの実行犯が握りしめていた、あの呪わしいメッセージ。医師の身辺からは、何ひとつとして「花売り」との接点は見つからなかった。
医師は、独房の格子を指先でなぞり、金属音を奏でた。
「土に縋り、赤を待つのは、救いを求める凡夫の役目です」
彼は窓のない壁を見つめ、陶酔したように続けた。
「わたくしは、与えられる側ではない。……紅く、咲き誇るそのもの(花)なのだから」
男の喉が、異様なまでの渇きを訴えた。
侵食は終わらない。
「花売り」という種を蒔く者がいる。絶望という「土」となる者がいる。そして今、自らが「花」そのものであると自覚する、新たな種(しゅ)が覚醒した。
男が独房を後にしたとき、廊下の隅、影が濃く溜まった場所に、一輪の真紅の幻影を見た気がした。
自身の心拍が、見えざる指先によって、ゆっくりと「調律」され始めていた。
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