『人斬り花、土なくして花は咲かず』

志乃原七海

第一話:露時雨(つゆしぐれ)

小説『人斬り花』

​第一話:露時雨

​「お願いします……支払いだけは、必ず……!」

​白く、漂白された静寂が支配する廊下に、男の湿った懇願が撥ね返された。鼻腔を焼くほどに鋭利な消毒液の臭気が、脳髄の奥底までを白く塗り潰していく。

​「ですから、もう何度もそう仰いましたよね」

​温度を欠いた宣告が、男の鼓膜の奥で硬く凍りつく。それは言葉ですらなかった。

​「……追い出す、ということですか」

​「人聞きの悪い。我々は効率を管理しているのであって、救済を売っているのではないのです。他の方々は皆、必死に工面してこられますよ。それができないというのは……もう、お分かりでしょう? あなたが、**“そういう欠陥品”**だというだけの話です」

​烙印は、背中ではなく、剥き出しになった心の臓に直接焼き付けられた。

​男はベンチに崩れ落ち、視界を一点に凝固させる。親指の腹が、脂汗で濁ったスマホの画面を無意味に滑る。脳裏を掠めるのは、かつて差し出された保険証書の、指先が切れるほどに鋭利だった紙の感触。

胃の腑から酸っぱい塊がせり上がり、食道を焼く。

​『俺が、殺すのか?』

​思考が底の見えない闇へと滑り落ちる。その時、液晶の光の中に、血を煮詰めたような赤い文字が浮かび上がり、男の眼球を刺した。

​『午前0時。絶望の芯で、赤を想え。最も大切なものの血で喉を潤す覚悟があるなら、“花売り”は現れる』

​「……あ」

​乾いた唇が裂け、鉄の味が広がる。

時刻は0時。中庭の夜気は、肺の奥を鋭く切り裂くほどに冷たかった。男はまぶたを閉じ、脳漿に刻み付ける。あの毒々しいほどに赤い花弁の、狂おしい曲線を。

​「――その渇き、わたくしが潤しましょう」

​音が死に、代わりにむせ返るような鉄と花の香気が空間を支配した。

目を開けると、そこに「それ」は立っていた。墨を溶かしたような漆黒の髪。死人のように透き通った白い肌。人間離れした造形美は、精巧な屍蝋人形を思わせた。

​「……お前が、“花売り”か」

​「ええ。なんと芳醇な、極上の絶望。……よろしい、その魂の叫び、わたくしが美味しく頂戴いたしましょう」

​少女は血管のように脈打つ真紅の一輪を取り出すと、その棘のある茎で、男の指先を微かに裂いた。

滲んだ血の玉を、花弁が貪るように吸い込んでいく。指先から熱が奪われ、氷点下へと沈んでいく感覚が男を支配した。

​「これは契約の印。この花を枕元へ。そして……あなたの手で、喉を、鼻を、そっと塞いでくださいな。最期の呼吸が絶える、その瞬間まで」

​少女の唇が、三日月のように歪んだ。

​「**最後の引き金を引くのは、あなたです。**わたくしは、ただ魂を、美味しくいただく『介錯』をするだけ」

​男は花を握りしめ、亡者のように病室へ向かう。

ベッドから聞こえる、肺が渇きを切らすような呼吸音。混濁した意識の中で、母の唇が微かに動いた。

​「……ごめ、んね……」

​その言葉が、男の最後の人間性を食い千切った。

​男は枕元に赤を置き、震える両手を、枯れ木の如き首筋へと這わせた。

薄い皮膚の下、喉仏の微かな震えが手のひらに伝播する。弱々しい抵抗。やがて、全てが弛緩し、温度が逃げていく絶望的な時間。

​男はただ、虚空を見つめていた。

​翌朝。

男の部屋の郵便受けに、事務的な封筒がねじ込まれていた。

中には、滞納額と全く同額の現金の束。いや、数え直すと、ぴったり一円だけ多かった。

​札束の下には、一枚の押し花。

最期の呼気を吸い尽くして、おぞましいほどに黒ずんだ赤。

封筒の表には、血で書いたかのような流麗な筆跡で、ただ二文字。

​『御介錯料』

​男はその札束を握りしめ、笑った。

声も出さず、ただ肩を震わせ、口角を異常な角度まで吊り上げて笑い続けた。

​それは悲しみか、安堵か。

それとも、ようやく手に入れた「自由」という名の、醜悪な歓喜か。

もう、彼自身にも分からなかった。

​テーブルの上には、手つかずのグラス。

その横には、コースターのように、一枚の赤い押し花が、新たな契約者を待つかのように、そっと置かれていた。

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