Missing Dog

水底まどろみ

遭遇

 それは残業で帰りが遅くなった、ある夜のことだった。

 住宅街の間を縫うようにして伸びた裏路地。街灯はところどころ切れており、濃い影を落としている。

 この道を通って帰るのが、最近の私の習慣となっていた。人の気配が無い静けさに包まれた空間は、考え事をしながら歩くのに最適だった。

 もっとも、頭に浮かぶのは気が滅入めいるできごとばかりだ。

 朝令暮改で人を振り回す上司の憎たらしい顔。

 三十路にもなってろくな交際経験がない自分の将来への不安。

 そして、昨年虹の橋を渡った、実家で飼っていたゴールデンレトリバーとの思い出……。

 兄弟のように過ごしてきた飼い犬との別れの記憶は、私の胃の中に重く沈んでいた。

 忘れようとしても、ふとした瞬間に喪失感が腹の底から湧き出てくる毎日。

 停滞した暗雲に包まれるような日々を送る私の前に、それは現れた。


 ジャラリ。


 暗い思案で埋めつくされていた私の意識に、冷たい音が割り込んでくる。

 何の音かといぶかしがり、私は足を止めて耳を澄ます。

 明かりの乏しい曲がり角の先から聞こえる、鎖が擦れるような金属音。何か軽い物がアスファルトに引きずられる音。

 それは誰かの歩調に合わせるような、規則正しいリズムを奏でている。

 胸の内で得体のしれないざわめきが生まれるのを感じた。体中の組織という組織が「逃げろ」と叫び、脳細胞が警鐘を鳴らす。

 だというのに、両足は地面に縫い付けられたように動かない。


 曲がり角の影がゆっくりと膨らむ。

 そこから現れたのは、一人の若い女だった。

 30歳前後だろうか。元は美人だった雰囲気のある顔立ちだが、肌は荒れ放題で髪も油分が浮いている。

 よれよれの黒いワンピースから伸びる白く骨の浮き出た腕。

 手に握られた鎖の先には、色褪せた赤い首輪がぶら下がっている。

 犬用の首輪だ、と直感的に思った。

 しかし、その先には何も繋がれていない。

 首輪は重力に従うままに引きずられ、金具がアスファルトと擦れるたびに硬い音が夜闇を裂く。

 女の仕草は、まるでそこに透明な犬が存在しているようだった。


 凍りついている私の隣を、女は何も言わずに通り過ぎていく。

 まるで私など見えていないかのように。

 すれ違いざまに見えた瞳は夜目にもわかるほど深く濁っていて、夏の暑さが近づきつつあるというのに体はかすかに震えていた。


 鎖を引きずる音が遥か後方に溶けて消えるまで、私は金縛りに遭ったように立ち尽くしていた。


狛猪こまいさん、なんか疲れてますか?」


 職場の喫煙所で煙を吹かせていた私に、髪をキッチリと整えた若々しい男が声をかけてくる。

 社員証には『三沢』という名が印字されている。確か営業部所属の新入社員だ。

 うちの部署とは関りが乏しいので数えるほどしか顔を合わせたことはないはずだが、臆することなく距離を詰めてくるのは流石営業部といったところか。

 あるいは私が不愛想すぎるのかもしれない。


「ちょっと最近変な女と出くわしてな」

「変な女、ですか?」


 三沢は仰々しく眉間に皺を作ってみせる。

 表情筋のよく動く男だ。これが営業マンの武器の一つなのだろうか。

 ともかく、私は普段より苦い味のするタバコを灰皿に押し付けて火を消し、煙を吐き出しながら数日前にあった出来事を簡単に説明した。


 すると、三沢は驚いたように目を見開いた。


「……狛猪さん、その女を見たのって南区のあたりですか?」

「なにか知っているのか?」

「僕が直接関わったわけじゃないんですけどね」


 三沢が言うには、大学生時代の友人がその辺りに住んでいた時に、同じように犬の首輪を引きずった女と遭遇したらしい。


「それで一時期、女の正体を突き止めようってことで探偵ごっこをしていたんですよ」

「……それで、調べた結果は?」

「うーん、決定的な証拠とかも無いので話半分に聞いて欲しいんですけど……」


 そう話しながら三沢はタバコを一本取り出し、火をつける。

 白い煙をくゆらせる彼の目はどこか遠くを見つめていた。


「……あの辺りで昔、犬の散歩をしていた女の子が連れ去られたらしいんです」


 連れ去り。

 予想だにしていなかった言葉に私は思わず息を飲んだ。


「しばらくして女の子の方は帰ってきたみたいなんですけどね。犬の方は、連れ去られた現場に出血多量で倒れていたそうで……」


 三沢はその先を言いたくなかったのか、言葉を濁した。

 ……無事ではなかったのだろう。

 不意に亡き愛犬の顔が脳裏に浮かび、自然と拳に力が入る。


「帰ってきた女の子も、愛犬を失った悲しみに監禁のストレスが重なって、すっかり塞ぎ込んじゃったらしいです」

「……それが、例の女」

「まあ、本人だという保証は何もないんですけど」


 肩をすくめて小さく笑う三沢だったが、私にはかなり真相に迫った話のように聞こえた。

 大切な存在を亡くし心に深い傷を負った少女。

 成長した今も、彼女が飼い犬の幻影を追い続けているのだとしたら……。

 私の頭の中には、あの夜すれ違いざまに見た空洞のように暗い瞳が焼き付いていた。

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