エピローグ 命の魔法

冬の朝、病室はまだ夜の名残を抱いていた。

白いカーテン越しに、薄く淡い光が差し込んでいる。酸素の機械が静かに息をし、ストーブのような低い音を立てていた。


ベッドの上の彼女は、眠っているように見えた。頬はわずかに紅を残し、唇はやわらかく閉じられている。

その姿を見ていると、今にもまぶたを開けて「おはよう」と笑ってくれそうで――


でも、その瞬間はもう二度と訪れないことを、僕は知っていた。

声をかけたいのに、喉が動かなかった。

「ありがとう」も「さよなら」も、どちらもあまりに重くて。


それでも、胸の奥で呟いた。

――僕があのとき必死に伝えた言葉、君は何も言わず、青い空の向こうへ消えていってしまったね。

手を握ると、まだ少し温もりが残っていた。

指先を辿るように、その温もりを記憶に刻む。


そのあとの時間は、ただ深い穴の底を歩いているようだった。医師や看護師の声は遠く、病室の白い壁は妙に冷たく見えた。

「これからどうしよう」という考えすら浮かばない。彼女のいない世界が、こんなにも色を失うものだとは思わなかった。


病室を片付けているとき、何となく引き出しを開けた。

その奥に、小さな封筒があった。

指先がかすかに震える。

ゆっくりと開くと、震えた文字で、たった二行だけが書かれていた。


あなたとの日々は、魔法のようでした。

生まれてきて良かった。


その文字は、彼女の笑い声や、泣き顔や、怒ったときの口調までも呼び起こすようで――

胸の奥に、静かに灯をともした。


さっきまで色を失っていた世界に、ほんの少しだけ色が戻ってくるのを感じた。

外を見ると、冬空の雲間から、白い光が差していた。

その光は、冷たく澄んだ空気の中で、どこまでも遠くまで伸びていた。


僕は封筒を胸にしまい、娘の手を握って病室を出た。

小さな手が、確かに握り返してくる。

白い息が空にほどけていく。

大きな樹の向こう、空の端に差し込む光を見上げながら、もう一度、心の中で呟いた。

――生まれてきて良かった

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MAGICー小さな春の魔法 燈の遠音(あかりのとおね) @akarinotone

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