第5章 小さな春と忍び寄る影
季節がひとつ巡るころ、彼女は表情の奥に、何かをしまい込むようになった。笑っていても、その笑みの輪郭が、どこか薄く滲んでいるように見えた。
その変化を言葉にすることはできなかったが、胸の奥で、まだ名前のない不安がじわり
と広がっていった。
三月のはじめ、朝の空気にはまだ冬の冷たさが残っていた。それでも庭の片隅では、土の間から小さな芽が顔を出していた。
娘が見つけて「ママ、黄色いお花!」と弾む声をあげる。縁側から出てきた彼女は、その声に導かれるようにしゃがみこむ。
小さなクロッカスが、薄く透ける花びらを陽にかざして揺れていた。
「ほんとだ……」と、驚いたように目を細める。その指先が花に触れると、まだ冬の名残の冷たさが宿っているようだった。
その午後、窓を少し開けると、冷たい風が部屋に入り込み、カーテンを静かに揺らした。
風の奥には、微かに春の匂いが混じっている。
娘は庭を駆け回り、彼女は縁側に腰を下ろしてそれを見守る。光の中で、彼女の髪が淡く透け、まるで季節の境目を映しているようだった。
時折、空を見上げる横顔は、そこにない景色を探しているようにも見えた。
――そして、数日後の朝。
キッチンに入ると、彼女は椅子に腰かけたまま動かずにいた。コンロの上で湯が沸き、細い湯気が真っ直ぐ天井へ昇っていく。
「どうした?」と声をかけると、彼女は少し息を整えてから笑顔を作る。
「なんでもない。ただ……ちょっと息がしづらくて」
その笑みは、形だけで温度がなかった。
それからの日々、彼女は階段を上るたびに手すりを強く握るようになった。
洗濯物を干し終えると、その場で呼吸を整える時間が増えた。
娘は何も知らず、いつも通り話しかける。
「ママ、今日もお花さいてたよ」
「そう……」
そのやさしい声のあとに続く沈黙が、少しだけ長くなった。
夜になると、寝室で彼女の寝息が浅く、不規則に途切れるのを感じた。
そっと肩に手を置くと、小さな体がかすかに震えている。
「やっぱり病院に行こう」
そう言うと、しばらく黙ったまま、やがて小さくうなずいた。
翌朝、雲ひとつない澄んだ空の下、彼女はマフラーを首に巻き、ゆっくりと結び目を整えた。
娘の頬に口づけをするその仕草は、まるで何かを確かめる儀式のように慎重だった。
その光景を見ながら、胸の奥で、まだ名前のない不安が静かに広がっていくのを感じた。
――病院から戻った夜。
処方された薬を並べながら、彼女はふと窓の外を見た。庭のクロッカスが、月明かりを受けて白く浮かび上がっていた。
それは、夜の中にひとつだけ灯った、小さな灯火のようだった。
凍える空気の中で、ただ静かに揺れながら、確かにそこに咲いている。
「まだ、咲いてるんだね」
その声はかすかに掠れていたけれど、
吐息の奥には、春の匂いと、ほんのわずかな温もりが混じっていた。
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