第 3 章 失うことと、増えていくもの
僕らの間に、新しい命が宿った。
それを知った日のことを、僕は一生忘れない。
診察室の扉が開き、彼女がゆっくりと出てきた。冬の朝の光が、廊下の奥から差し込んで、彼女の横顔を照らしていた。
頬は少し紅潮しているように見えたが、その目はどこか遠くを見ている。
僕の前に立ち止まり、彼女はしばらく何も言わなかった。白い息が、ひとつ、ふたつ、天井に向かって消えていく。
そして、まるで小さな秘密を打ち明けるように、短く言った。
「……できちゃった」
その声は驚くほど淡々としていたけれど、
両手で握った診察券がわずかに震えていた。
僕は「そうなんだ」としか言えなかった。
その瞬間の自分の顔が、嬉しそうだったのか、不安そうだったのか、思い出せない。
――嬉しいのか、悲しいのか。
彼女の表情もまた、そのどちらにも見えた。
それからの日々、彼女はときどき、長い時間を窓辺で過ごすようになった。まだ冬の名残が残る冷たい陽射しに、髪の先が淡く透けて光る。
カーテン越しの風が、微かに頬を撫でていた。
その背中に近づくと、彼女は視線を外へ向けたまま、ぽつりと言った。
「ねぇ……どうしてだろう」
「どうしてって?」
「いずれは全部、失うのに……」
小さく息を吸い、言葉を探すように間を置く。
「どうして大切なものが、こんなに増えていくの?」
僕はしばらく黙っていた。
その問いに、正しい答えなんてない。
ただ、声にしないままでいるには、あまりにも胸が詰まっていた。
「……それでも僕は、幸せだよ」
彼女は、驚いたようにほんの少しだけこちらを見た。けれどすぐに、また窓の外へ視線を戻す。
その横顔は、相変わらずどこか悲しそうで――でも、ほんの少しだけ柔らかかった。
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