誰が“昨日の私”を殺したか

逢坂

序章『最後の言葉』

雨が降っていた。

巨大な都市国家トウキョウの摩天楼を、無数のネオンの光が滝のように流れ落ちていく。その光を浴びて、雨粒は、まるでサイバー空間から漏れ出したデータのように、色とりどりにきらめいていた。


高層ビルの最上階。

豪華だが無機質で、人の体温が感じられないペントハウスの分厚い防弾ガラスの向こうに、その光景は広がっていた。部屋の中は、死んだように静かだった。


相馬圭(そうま けい)は、震える手で、旧式のボイスレコーダーを握りしめていた。

シルクの高級なガウンを羽織っているというのに、体の芯から這い上がってくる悪寒が止まらない。額から流れ落ちた汗が、顎の先で雫となって、磨き上げられた黒檀のデスクに小さな染みを作った。


彼は、背後を気にするように、何度も自室のドアに視線を送る。

物理的にも、電子的にも完璧な要塞のはずだった。彼自身が作り上げた、アストラル・ダイブ社の最新技術で固められた、鉄壁の聖域。だが、今、その絶対的な安全神話が、音もなく崩れ去ろうとしていた。


(なぜだ…なぜ、俺のセキュリティを突破できた? この部屋は、俺の脳と直結している。俺の許可なく、アリ一匹入ることはできんはずだ。なのに、奴は、まるで俺の思考を読むかのように、全ての防御をすり抜けてきた…)


絶望的な予感が、彼の喉を締め付ける。相馬は、意を決して、レコーダーの録音ボタンを押し込んだ。


「アヤコ…聞こえるか? 俺だ。もし、お前がこれを聴いているなら、俺はもうこの世にいない」


自分の声が、ひどくかすれていることに気づく。彼は一度咳払いをして、切迫した声で続けた。


「いいか、よく聞け。俺は殺される。だが、命じゃない…俺の“記憶”がだ。奴らは、俺が死んだ後、俺のメモリコアにアクセスし、俺の記憶を編集するつもりだ。俺の死は、恐らく『自殺』として処理されるだろう。だが、それは嘘だ」


息が苦しい。まるで、見えない手に首を絞められているようだ。


「アヤコ、真実は…オリジナルのデータは、別にある。奴らにも見つけられない場所に隠した。場所は…『アマデウス』に…。頼む、戌亥を…戌亥を呼んでくれ。奴しか…」


その言葉が、彼の最後の抵抗だった。


カチャリ。


背後で、静かだが、決定的な音が響いた。

自室のドアの電子ロックが、内側からの操作ではなく、外部からの認証によって、無機質に解除される音。


相馬圭は、ゆっくりと、そして絶望に顔を歪ませながら、振り返った。

彼の目に最後に映ったものが何だったのか、それを知る者は、もう誰もいない。


翌朝、ペントハウスには、昨夜の雨が嘘のような、鋭い冬の日差しが差し込んでいた。しかし、その光も、部屋に澱む死の空気を温めるには、あまりに無力だった。


相馬圭は、書斎のデスクで、頭を拳銃で撃ち抜いた姿で発見された。状況は、誰の目にも明らかな自殺に見えた。傍らには、彼の指紋だけが付着した拳銃が、冷たい輝きを放って転がっている。


「…またか。巨大企業のCEO様も、最後はあっけないもんだな」


現場に到着したベテラン刑事、堂島は、うんざりした顔でそう吐き捨てた。彼は、部下に顎をしゃくる。

「メモリコアの最終記録を再生しろ。さっさと裏を取って、この件は終わりにするぞ」


部下の刑事が、携帯端末を操作する。やがて、部屋の空間にホログラムスクリーンが投影され、相馬の死の直前の記憶映像が、無機質に再生され始めた。


映像の中の相馬は、事業の失敗を嘆き、自らの無能を呪う言葉を、力なく呟いていた。その瞳には、かつて彼を世界の頂点へと押し上げた、野心の色はどこにもない。


「もう、終わりだ…」


その言葉と共に、彼は引き出しから拳銃を取り出し、震える手で自らのこめかみに当てる。そして、一瞬の躊躇の後、引き金を引いた。

映像に、不審な点は何一つ見当たらない。完璧な、絶望の果ての自殺だった。


「よし、自殺で処理しろ。面倒なことになる前に、さっさと片付けるぞ」

堂島の鶴の一声で、現場の処理が手際よく開始される。警官たちの無遠慮な足音が、死者の聖域を踏み荒らしていく。


その喧騒の中、誰一人として気づく者はいなかった。

重厚なソファの下、その僅かな隙間の暗がりに、死んだ男が最後に握りしめていた旧式のボイスレコーダーが、主を失ったまま、静かに転がっていることを。


新宿の空は、鈍色の雲に覆われている。その一角、雑多なテナントがひしめく古びた雑居ビルの三階に、「戌亥(いぬい)探偵事務所」のプレートはあった。ドアを開ければ、カラン、と乾いたベルの音が鳴る。そんな時代錯誤な仕掛けが出迎える事務所の中は、およそ21世紀の仕事場とは思えぬガラクタで溢れていた。


分厚いブラウン管モニタが鎮座する旧式のPC。ダイヤルが剥げかけた黒電話。そして、壁という壁を埋め尽くすのは、データではなく紙の書類が詰まったファイル棚だ。


事務所の主、戌亥護(いぬい まもる)は、その混沌の中心で、インスタントコーヒーの湯気が立ち上るマグカップを片手に、インクの匂いがする紙の新聞を広げていた。彼の周りだけ、時間の流れが数十年ほど遅れているかのようだ。


その時、事務所のドアが控えめにノックされた。


「…どうぞ」


戌亥が顔を上げずに応じると、ゆっくりとドアが開く。そこに立っていたのは、一人の女性だった。上質そうな黒い喪服に身を包み、その姿は薄暗い事務所の中でさえ際立って見えた。


整った顔立ちは悲しみで静まり返っているが、その瞳の奥には、揺るがない強い光が宿っている。相馬亜矢子(そうまあやこ)と名乗った彼女は、感情を押し殺した平坦な声で語り始めた。


夫が死んだこと。警察は、状況から見て自殺だと断定したこと。


「ですが」


亜矢子は、きっぱりと言い切った。


「夫は自殺などしません。…あの人の野心には、際限というものがありませんでした。全てを手に入れるまで、決して歩みを止めることはなかったでしょう」


その言葉には、揺るぎない確信が込められていた。彼女は静かにハンドバッグを開くと、中から一つの小さな機械を取り出した。旧式の、デジタルボイスレコーダー。それを、戌亥の机の上に、ことりと置いた。夫の遺品の中から、見つけ出したのだという。


戌亥は新聞から目を離し、初めて目の前の依頼人と、その小さな遺品に興味を示した。


「…ほう。今どき、こんなアナログな遺言とは。酔狂な旦那さんだ」


彼はマグカップを置き、無骨な指でボイスレコーダーを手に取る。そして、ためらうことなく再生ボタンを押した。


ジジ、というノイズの後、切迫した男の声が、ガラクタだらけの事務所に響き渡る。


『これを聴いているのが誰かは分からない。だが、もし俺、相馬圭の意識が、記憶が、人格が、この世界から消え去っていたとしたら――』


それは、序章で響いた、死んだはずの男の声だった。最後まで聴き終えた戌亥は、何も言わずに再生を止め、黙って目を閉じる。カチ、カチ、と壁の時計の秒針だけが、沈黙を刻んでいく。


やがて、彼はゆっくりと目を開けた。その口元には、獰猛な笑みが浮かんでいた。


「…なるほどな。死人に口なし、か。だが、死んだ男の記憶が、まだこの街のどこかで雄弁に何かを語りたがっている、と。面白い。実に、厄介で、面倒で、金になりそうな事件だ」


戌亥は、まっすぐに亜矢子を見つめ、ニヤリと笑ってみせた。


物語が、ここから始まる。死んだ男の「昨日」を取り戻すための、奇妙な捜査が。

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