8章-第2話

地下水路の瘴気から逃れてきたりんたろうはベッドに横たわっていた。ミヤビは、そのベッドの近くの椅子に腰掛けている。

医師たちが慌ただしく手当を施す中、安堵としかし拭いきれない不安に苛まれていた。


「……みんな、大丈夫かな」


ミヤビが掠れた声で呟く。その言葉に、りんたろうは何も答えられなかった。

その時、近くを通りかかった衛兵たちのひそひそ話が、二人の耳に届いた。


「おい、見たかよ。戻ってきたのは、あの二人だけだぜ」

「ああ……他の騎士様方は、結局……」

「まさか、見捨てて逃げてきたんじゃないだろうな。いくら宮廷騎士と言っても、裏切り者が紛れてたって話もあるし……」


ミヤビは、その言葉を聞くやいなや、カッと顔を上げた。怒りに震え、思わず立ち上がろうとする。

しかし、彼女の言葉を遮るように、りんたろうが静かに腕を掴んだ。


「今は、何も言わない方が良いでしょう」


りんたろうの声は低く、そして悲しみを秘めていた。


「彼らが信じるのは、目の前で起こった事実だけです。私たちが無事で、他の皆が戻っていないという、それだけの事実。ここで反論しても、憶測が憶測を呼ぶだけでしょうから」


りんたろうは、痛みを感じさせないように、それでも強くミヤビの腕を握りしめた。


「今は上に報告し、皆様の無事を信じて待つしかありません。それが、私たちにできる最善です」


ミヤビは、悔しさを噛み締めながら、再び椅子に座り込んだ。

部屋がノックされ、1人の近衛兵が入ってきた。


「報告を。地下には誰もいませんでした。そこには、ただ血痕が残っていただけだと言うことです」


近衛兵は言葉を区切り、重々しく告げた。

その言葉にミヤビの顔から血の気が引く。


「そんな……」


彼女は震える声で呟き、りんたろうの手を強く握りしめた。その手は、冷たく、そして力なく震えていた。

りんたろうは、ただ黙って、彼女の手を握り返すことしかできなかった。

彼の心の中には、怒りと、絶望と、そして、かすかな希望が渦巻いていた。


「……かける……みんな……」


ミヤビの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。

りんたろうは、彼女をそっと抱き寄せ、その頭を優しく撫でた。


「まだ、分かりませんよ。皆様お強いですから、まだどこかで生きているはずです」


しかし、その言葉は、りんたろう自身にも響いてはいなかった。ただただ、仲間たちの姿が消えていったという事実だけが、彼らの心を深く抉っていた。


ーーーー


王宮の治療室の重苦しい空気の中、数時間が過ぎた。

だが状況は好転せず、むしろ衛兵たちの視線は二人に対してますます冷ややかなものになっていた。

そこへ、王宮直属の参謀官が現れ、無駄のない足取りで彼らに近づく。


「……君たちには、しばらくここを離れてもらおう」

「離れる……? 今、この状況でですか」


みやびが鋭い視線を返す。

参謀官は冷静な声で告げた。


「王宮内であなた方に対する疑念が高まっている。しかも、あの地下迷宮の瘴気は未だ収束していない。

あの場にいた者が何らかの影響を受けている可能性も否定できない。……ここに留まるのは危険と判断した」

「では、行き先は?」


りんたろうが問うと、参謀官は一枚の地図を差し出した。


「ここだ。聖教本部」


ミヤビは一瞬、息を呑んだ。

聖教――かつて王国と対立し、数日前の戦いで無力化された宗教組織。

その本部は今や信者のほとんどが散り、わずかに残った者たちも表立った活動はしていないはずだった。


「どうして、そんな場所に」

「残党はもはや力を持たず、あの場所は今や宮廷の監視下にある。それに――」


参謀官は一拍置き、りんたろうに視線を移した。


「……君は、元々そこにいたはずだな」


りんたろうは黙っていたが、やがて小さく息を吐き、視線を落とした。


「……ええ。私は聖教の信徒として生まれ、育ちました」


だが、りんたろうの目は迷いなく真っ直ぐだった。


「今はその本部こそが、我々にとって最も安全な場所でしょう。あそこには、私を未だ信じてくれる古い仲間もいます」


参謀官は短く頷いた。


「準備が整い次第、今夜のうちに出発する。王宮内での君たちの立場は保障できない。……生き残りたければ、従ってもらう」


その言葉を背に、ミヤビは複雑な表情でりんたろうを見つめ続けた。


ーーー


夜。

王宮裏門から出る一台の小型馬車。

御者台には参謀官の部下、車内にはりんたろうとミヤビだけが座っていた。


街灯の明かりが途切れるたび、ミヤビの視線は無意識に彼の横顔へ向かう。

しかし、りんたろうは外の闇ばかりを見ていた。


「……本当に、そこが安全なの?」


ミヤビの問いは、静かな夜気に吸い込まれる。


「今の王宮よりは、おそらく」


りんたろうは短く答えた。


「聖教は今や牙を失いました。残っているのは、信仰だけを拠り所に生きる者たちです。……ですが」

「ですが?」

「私を知る者の中には、受け入れる者と……そうでない者がいるでしょうね」


その言葉に、ミヤビは彼の横顔をじっと見つめた。

りんたろうは続ける。


「私は裏切りました。教団のために潜入しながら、宮廷のために剣を振るったのです。それがどんな理由であれ、彼らにとっては事実だけが残ります」


ミヤビは少しだけ笑みを作った。


「……それでも、信じてくれる人がいるんでしょ?」


りんたろうはわずかに目を細め、窓の外を見やった。

遠くに、黒い影のような塔が見えてくる。

それが、聖教本部――彼の過去そのものだった。


「はい。私が命を懸けて守りたいと思う人たちがおりますとも」


馬車は夜の荒野を進み、やがて廃墟と化した石造りの街並みへ入っていく。

その奥にそびえる大聖堂の尖塔が、月明かりを背に不気味に浮かび上がっていた。


「……到着ですね」


りんたろうの声は低く、しかしどこか覚悟を帯びていた。

馬車が止まると、黒衣を纏った数人の影が近づいてくる。

その中のひとりが松明を掲げ、光の中でりんたろうの顔を見た瞬間――驚きと感情の入り混じった声が漏れた。


「……りんたろう……! 本当に……?」


夜風が冷たく吹き抜ける中、彼の過去と現在が交差する瞬間だった。


ーーーーー


夜、聖教本部。

かつて荘厳な礼拝堂だったはずの空間は、今や避難民の臨時住居と化していた。

壁のステンドグラスはひび割れ、燭台の明かりが揺れる中、人々は薄い毛布に身を包んでいる。

りんたろうが扉を押し開けた瞬間、ざわめきが広がった。


「……りんたろうだ……」

「まさか生きて戻るなんて」

「裏切り者が、今さら何を……」


温かい声もあれば、鋭い敵意もあった。

そして、彼の隣に立つミヤビに視線が集まるや、空気はさらに張り詰めた。


「見ろ、あの女……」

「あれが異端の魔女か」

「星核の力を持つ人間だ……俺たちを苦しめた元凶と同じ力を……」


中には露骨に距離を取る者もいた。

その囁きは壁に染み付いたように重く、みやびの胸を締めつけた。


奥から、銀色の十字の首飾りを下げた壮年の男が歩み出る。

彼はりんたろうと一瞬視線を交わし、その後ミヤビをじっと見据えた。


「お前が――噂の魔女か」


ミヤビは言葉を失い、ただ唇を結んだ。

その沈黙が、周囲の懸念をさらに増幅させる。


「この大聖堂には、かつて星核の瘴気で家族を失った者が多くいる。

 ……同じ力を持つ者を匿うことは、恐怖を呼び起こす行為だ」


ざわめきが再び大きくなり、拒絶派の視線が突き刺さる。

しかし、りんたろうは一歩前に出て、周囲を睨み据えた。


「彼女は俺の命を救ってくださいました。そして、敵でもありません。

 もし彼女を追い出すというのなら、私ごと追い出してください」


その言葉に、一瞬だけ沈黙が訪れた。

だが、その沈黙の下で、歓迎派と拒絶派の亀裂は確かに走っていた。

礼拝堂の空気は、刃物のように鋭くなっていた。

拒絶派の信徒たちは眉間に皺を寄せ、ミヤビから視線を逸らさない。

歓迎派の者たちは、りんたろうの言葉に頷きながらも、緊張を隠せずにいた。


「異端を匿えば、再び聖教は堕落する!」

「だが彼女がいなければ、我らは星核から逃げられなかった!」

「そんなことより、瘴気を操る敵の手先かもしれんのだぞ!」


言葉の応酬は次第に声を荒げ、やがて互いに詰め寄る者まで現れた。

木製の長椅子が倒れ、蝋燭の炎が大きく揺れる。

りんたろうはミヤビをかばうように前に立ち、低く鋭い声で叫んだ。


「おやめください! ここは教会です! 血を流す場所ではありません!」


しかし、その言葉は届かない。

感情が限界まで膨れ上がった群衆の中で、誰かが「化け物」と吐き捨てた瞬間――礼拝堂の大扉が、外側から乱暴に開かれた。

冷たい夜風とともに、複数の影が忍び込んでくる。

黒ずくめの外套、そして顔の上半分を覆う青いの仮面。


「……ッ!」


りんたろうは即座に剣に手をかけた。

先頭に立つ仮面の男の手下が、氷のような声を響かせる。


「探したぞ、異端の魔女」


その瞬間、礼拝堂の中の対立は一瞬で霧散した。

信徒たちは恐怖で後ずさり、数人は悲鳴をあげて逃げ出す。

しかしミヤビは、りんたろうの背中越しに仮面の手下を睨みつけ、小さく、しかしはっきりと呟いた。


「……また、あなたたち……」


男の口元が、仮面の奥で笑う。

礼拝堂に吹き込んだ夜風が、瘴気の色を帯びはじめ、仮面の男の部下が、淡々と呪詛の言葉を唱える。

拒絶派の信徒たちの瞳が、ぞっとするほど濁った闇色に染まっていく。


「……ッ! やめてください!」


りんたろうが声を張り上げるが、

その身体はまだ深手から回復しておらず、応急処置の包帯越しに滲む血が動くたび痛みを訴えていた。

信徒の一人が祭壇から長槍を掴み、一直線に彼へと突進してくる。


「やめてっ!」


ミヤビが息を呑むと同時に、さらに数人の信徒が左右から迫る。

その動きは人間らしいためらいを欠き、まるで操り人形のようだった。


「離れなさい!」


長槍の一撃を受け流したりんたろうは、その衝撃でよろめき、壁に背中を打ち付けた。

周囲の信徒たちの瞳は、もはや人の光を宿しておらず、ただ命令に従うだけの空虚な闇を湛えている。


「りんたろう!」


ミヤビが駆け寄ろうとするが、彼女の前に信徒たちが立ちはだかる。

彼女は、信徒たちの瞳に映る自分自身の姿を見て、激しい嫌悪感に襲われた。

この光景がみちるやとうまの姿と重なる。自分たちが逃げたことで、今度は彼らが同じように操られている。


「なんで……!」


ミヤビの叫びは、虚しく響いた。

仮面の男の手下は、その様子を冷ややかに見つめている。


「哀れだな、異端の魔女よ。仲間が、お前のせいで苦しんでいる。そして今度はこの者たちが、彼を殺すために動くだろう」


男はそう言い放ち、再び呪詛を唱え始める。

すると、礼拝堂の中央に、黒い瘴気が渦を巻き、まるで巨大な生物のように膨れ上がっていく。


「彼女から離れなさい!」


りんたろうが再び剣を構えるが、彼の身体は限界だった。

深手を負った身体は、動くたびに激痛が走り、剣を握る手も震えている。

信徒たちは、一斉にりんたろうとミヤビに襲いかかる。

槍、剣、ナイフ。持てる武器を手に、感情のない殺意をぶつけてくる。


その時、ミヤビの前に、ひとりの信徒が飛び出した。

彼は、かつてりんたろうに温かい声をかけた、歓迎派の信徒だった。


「やめてください!」


彼は両手を広げ、ミヤビを庇うように立ち塞がる。

その瞳は、まだ濁りきってはいない。


「……私は……りんたろう様を信じています……! そして、この方も……信じています……!」


彼の言葉に、一瞬だけ、他の信徒たちの動きが止まる。

しかし、その隙を逃さず、仮面の男の手下はさらに強い呪詛を唱えた。


「無駄だ。信じる心など、この力の前では無力だ」


男の声が響くと同時に、信徒の瞳は完全に闇に染まり、彼はミヤビへと手を伸ばした。

その手には、まるで意思を持つかのように、黒い瘴気が渦巻いている。

その時、りんたろうが、ふらつく身体を叱咤し、剣を振りかぶった。


「ミヤビ様! この場所から離れてください!」


彼は、信徒たちの群れに突っ込み、剣を振るう。

しかし、その剣は、信徒たちを傷つけることを躊躇っている。

彼は、彼らが操られているだけだと分かっているからだ。


「りんたろう……」


ミヤビは、その優しさに胸を締め付けられる。

そして、彼女は、決意を固めた。


「……もう、誰にも、傷つけさせない」


彼女の身体から、淡い光が放たれる。

それは、瘴気とは正反対の、清らかな光。


(襲撃事件は正史でも、信徒たちへの危害は無かったことに出来るはず……!)


光は、礼拝堂全体を包み込み、信徒たちの瞳に宿る闇を払い始める。

仮面の男の手下は、その光に驚き、一歩後ずさった。


「馬鹿な……! なぜ、お前がその力を……!」


男が叫ぶが、光はさらに強くなる。

信徒たちの瞳から、徐々に闇が引いていき、人の光が戻ってくる。


「……っ……私は何を……」


信徒たちは、意識を取り戻し、自分たちが何をしたのかを理解し、その場で崩れ落ちる。

彼らの瞳には、恐怖ではなく、感謝と、そして、懺悔の念が浮かんでいた。

その隙を突き、りんたろうが、仮面の男の手下に斬りかかる。

男は、驚きと焦りの表情を浮かべながらも、呪詛を唱え、瘴気の渦をりんたろうへと向ける。

だが、りんたろうは、その渦を、剣の一閃で切り裂いた。


「もう、あなたたちの好きにはさせない!」


彼の瞳には、怒りと固い決意が宿っている。

その声に、ミヤビも頷き、光を放ち続ける。

彼女の言葉に、信徒たちは、皆、静かに頷いていた。

仮面の男の手下は、りんたろうとミヤビの連携に舌打ちをした。


「……くそっ、これ以上は無駄だ。今は退くぞ!」


男はそう叫び、部下たちに撤退を指示した。


「逃がしません!」


りんたろうは傷ついた身体に鞭を打ち、男を追いかける。だが、男は懐から水晶玉を取り出し、床に叩きつけた。水晶玉は弾け飛び、瘴気の煙幕を発生させる。

りんたろうは追撃を諦めざるを得なかった。

煙が晴れると、男たちの姿は既になく、再び静寂が訪れる。


「……大丈夫?」


ミヤビが駆け寄り、その身体を支える。りんたろうは、痛みに顔を歪ませながらも、小さく頷いた。


「ええ、なんとか……」


彼の背中に滲む血は、さっきよりも濃くなっていた。

周囲では、意識を取り戻した信徒たちが、自分たちのしたことに戸惑い、そしてミヤビへと頭を下げていた。


「……本当に、申し訳ありませんでした」

「我々は、あなたの力を……間違って捉えていたようです……」


信徒たちの言葉に、ミヤビは首を横に振った。


「いいえ。あなたたちは、被害者です」


彼女の言葉に、信徒たちは、深く頭を垂れる。

その様子を、奥で見ていた壮年の男が、ゆっくりと歩み寄ってきた。


「……すまなかった」


男は、りんたろうとミヤビに、深く頭を下げた。


「私たちが、あなた方を信じられなかったばかりに、このような事態を招いてしまった」


男の言葉に、りんたろうは静かに答える。


「あなたは、信徒たちを守ろうとしただけです。責めることはできません」


その言葉に、男は顔を上げ、りんたろうをまっすぐに見つめた。


「ありがとう、りんたろう。是非とも協力させてくれ」


壮年の男性の言葉に、りんたろうは安堵の息を漏らした。だが、その安堵は一瞬のことだった。

張りつめていた緊張の糸がぷつりと切れ、深手の痛みが一気に押し寄せてくる。彼の顔から血の気が失せ、ぐらりと体が揺れた。


「りんたろう!」


ミヤビの悲鳴にも似た声が響く。彼女が慌てて支えようとするが、りんたろうの体は力なくその場に崩れ落ちた。壮年の男がすぐさま彼の脈を取り、眉をひそめる。


「……無理をしたな。この傷は、治癒魔法でも時間がかかる。安静にさせねば」


男の指示で、りんたろうは簡素な寝台へと運ばれていった。彼の顔には苦痛の表情が浮かんでいる。

ミヤビは、その様子を心配そうに見守りながら、自らの無力さを痛感していた。

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