8章-第1話

湿った石壁に背を預け、りんたろうは荒い呼吸を繰り返していた。

腕も脚も傷だらけで、ところどころの裂傷からは黒い光を帯びた瘴気が滲み出している。

その瘴気は、血と共に体内を巡り、胸の奥で、異質な脈動を生んでいた。


「……っ、ぐ……!」


胸を押さえ、歯を食いしばる。

内側から焼けるような熱と、骨の芯を凍らせるような冷気が同時に襲いかかる。

それはまるで、身体という器を無理やりこじ開け、何かを押し込んでくるような感覚だった。


「……入り込んで……これが呪い、か……」


視界が揺らぎ、額から冷や汗が滴る。

暗がりの奥から、青い仮面の男がゆっくりと近づいてきた。

低く、乾いた声が響く。


「お前、やはり素質がある。前に王都に潜り込んだ時の働き……悪くなかった」


りんたろうは、乱れた呼吸の合間に睨み返す。


「……スパイの話なら……もう御免だ」


男は肩をすくめ、仮面の奥で笑った気配を見せた。


「選択肢は二つだ。もう一度我らに尽くすか……ここで朽ちるか」

「……だったら、死んだ方がマシだ」


りんたろうの声は掠れていたが、その眼光は揺らがなかった。

一瞬、沈黙。

そして仮面の奥から吐き捨てるような言葉が落ちる。


「……そうか。ならば——死ね」


次の瞬間、男の掌に瘴気が凝縮し、槍のように鋭く伸びた。

りんたろうは壁を背に、逃げ場を失ったまま、その影が迫るのを見つめ——


「やめて!」


槍を光が覆い被さり、瘴気が爆ぜて壁を抉る。

衝撃で青い仮面の男が一歩退いた隙に、ミヤビが滑り込み、りんたろうの腕を掴んだ。


「立てる!?」

「……はい、問題ありません……!」


しかし救出の喜びに浸る暇はなかった。

地下室いっぱいに広がった瘴気が、肺と血を蝕んでいく。

息を吸うたび、視界が滲み、手足に力が入らなくなる。


「……やばい、長居できない。早く行こう」

「はい。急ぎましょう」


瀕死のりんたろうが血を吐きながらも剣を抜いた。

傷口からは瘴気が漏れ出し、握った剣は震えていたが、その瞳は決して折れていない。

その間にも仮面の男の瘴気は濃くなり、地下の空気は完全に敵の支配下にあった。


「異端の魔女か。お前に何が出来る! やれ!」


仮面の男の冷たい声が地下牢の闇に響く。

りんたろうが剣を構え、応戦する。

金属がぶつかる甲高い音が、湿った地下室に響き渡る。

りんたろうは剣を振るうたび、傷口から瘴気が漏れ、全身に鋭い痛みが走った。

それでも、一歩も引かず敵の刃を受け止める。


「お下がりください……!」

「無茶言わないで、あなた一人じゃ——!」


ミヤビは掌に光を収束させる。

だが、濃すぎる瘴気が流れを乱し、光は不安定に明滅する。


「邪魔だ」


仮面の男が掌を振ると、黒い瘴気が床から伸び、ミヤビの足を絡め取った。

冷たい感触が足首を締め上げ、皮膚に痺れる痛みが走る。


「く……!」


その瞬間、りんたろうが剣で瘴気を斬り裂いた。

瘴気の間に道ができる。


「今です!」


二人は互いに腕を掴み、通路へと駆け出す。

背後で仮面の男が怒声を上げ、瘴気が槍の形を取って追いかけてきた。


——バンッ!


最後の階段を駆け上がり、重い扉を押し開けた瞬間、冷たい外気が二人の肺に流れ込む。

その向こうには、鎧に身を包んだ宮廷騎士たちが数名、剣を構えて待っていた。


「ミヤビ様! りんたろう殿!」

「急げ、瘴気が溢れる!」


騎士たちは即座に二人を囲み、背後の扉を固く閉ざす。

りんたろうは剣を突き立てて息を整え、膝が揺れても倒れなかった。


「……戻れた……!」

「ええ、ちゃんと」


ミヤビは短く答え、まだ遠くから響く瘴気の唸り声を背に、深く息をついた。

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