第10話「春の衣替えと、旅立ち前夜」
その年の春は、いつもより少し早く訪れた気がした。暖かい日差しが窓から差し込み、部屋の中に穏やかな空気をもたらしている。
沙優は、自分の部屋で、段ボール箱を前に、ぼんやりと座っていた。旅立ちの日は、もうすぐそこまで来ている。吉田と暮らし始めてから、あっという間の一年だった。
「なあ沙優。もうすぐ春だし、衣替えでもするか」
リビングから、吉田の声が聞こえてくる。沙優は、ハッと我に返り、「は、はい!」と元気な声で返事をした。
二人は、それぞれの部屋の衣類をリビングに持ち出し、衣替えを始めた。冬物のセーターや厚手のコートを畳んで、段ボール箱に詰めていく。沙優は、自分の服を畳みながら、ふと、胸の奥に寂しさを感じる。
(もう、この家で衣替えすることはないんだな)
そう思うと、手が止まってしまう。吉田との生活は、この衣替えと共に、終わりを迎える。旅立ちの日が近づくにつれて、期待と不安が入り混じった複雑な感情が、沙優の心を支配していた。
「どうした沙優?手が止まってるぞ」
吉田の声に、沙優は再びハッとする。
「いえ、なんでもないです!ちょっと、考え事してて」
「そうか」
吉田は、特にそれ以上深く追求することなく、自分の服を黙々と畳んでいく。だが、沙優は、吉田のその背中を見て、気づいてしまう。吉田もまた、どこか寂しそうな表情を浮かべていることに。
(吉田さんも、寂しいのかな……)
吉田は、沙優との生活が終わることに、漠然とした寂しさを感じている。沙優がこの家に来てから、吉田の日常は大きく変わった。一人で食べていた夕食は、二人で囲む温かいものになった。一人で見ていたテレビは、二人で笑い合う時間になった。
沙優がいない生活は、どんなものになるだろうか。また、あの孤独な日常に戻ってしまうのだろうか。吉田の心に、そんな不安がよぎる。
衣替えが終わり、二人はリビングのソファに並んで座った。
「ありがとうございました、吉田さん」
沙優は、そう言って、深々と頭を下げる。
「いや、お前がいてくれたから助かったよ」
吉田は、そう言って微笑む。その言葉に、沙優は何も言えずに、ただ吉田の顔を見つめていた。
その夜、二人はいつものように食卓を囲んだ。食卓には、沙優が旅立ちを前に、心を込めて作ったご馳走が並んでいる。
「……美味いな」
吉田は、一口食べるごとに、そう呟く。沙優は、その言葉に、嬉しそうな笑顔を見せる。
だが、二人の会話は、どこかぎこちない。お互いに、明日が来てほしくないと思っている。明日、沙優は、この家を出ていく。
食事が終わり、沙優は吉田に「お風呂、先に入ってきてください」と言う。吉田は「ああ」と答え、お風呂場へと向かった。
お風呂から出てきた吉田は、リビングで、布団を敷いている沙優の姿を見つける。いつもなら、沙優が布団を敷き、吉田が敷くのを手伝うのだが、今日は沙優が一人で布団を敷いていた。
「……沙優」
吉田が声をかけると、沙優は振り返る。その瞳は、少しだけ赤くなっていた。
「……明日、いよいよですね」
沙優の言葉に、吉田は何も答えられなかった。
「私、吉田さんと出会えて、本当によかったです」
沙優は、そう言って、深々と頭を下げる。
「沙優……」
吉田は、沙優の頭を、優しく撫でた。
「お前がこの家に来てくれて、よかった」
吉田の言葉に、沙優は顔を上げ、涙を流しながら微笑む。
翌朝、沙優は旅立ちの準備を終え、吉田の出勤を見送った。いつもの「いってらっしゃい」が、この日ばかりは特別な意味を持つ。
「……行ってきます」
吉田は、そう言って家を出た。沙優は、その背中を、ただ黙って見送る。
吉田が角を曲がり、姿が見えなくなるまで、沙優は立ち尽くしていた。そして、吉田の姿が見えなくなった後、沙優は、静かに涙を流した。
吉田は、会社に向かう道中、何度も後ろを振り返った。そこには、もう沙優の姿はない。だが、吉田の心の中には、沙優との温かい日常が、いつまでも残り続けていた。
物語は、原作の本筋へと繋がっていく。
ひげを剃る。そして女子高生を拾う。番外編 ― 風邪と衣替え、そして旅立ち ― 五平 @FiveFlat
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