第3話「コンビニの攻防戦」

その日の夜、吉田はひどく疲れていた。デスクワーク特有の肩こりと、締め切りに追われた精神的な疲労が、ずっしりと身体にのしかかる。こんな日は、甘いものでも食べて、さっさと寝てしまいたい。


そんなことを考えながら、最寄りのコンビニに立ち寄った。目的は、期間限定で発売されている濃厚チーズケーキだ。疲れた心と身体に、とろけるような甘さが沁み渡る。想像するだけで、疲れが少し和らぐ気がした。


だが、コンビニに入った瞬間、吉田は予期せぬ光景を目にする。


「……あれ?」


目的のチーズケーキが並んでいるはずの棚の前で、一人の少女が熱心に商品を吟味している。その見慣れた後ろ姿に、吉田は思わず声をかけそうになった。いや、声をかけるべきだろうか。疲れているし、早く帰りたい。でも、声をかけなかったら、後で何か言われるかもしれない。


吉田の脳内で、思考の暴走が始まる。


(声をかけないパターン。俺が黙ってチーズケーキを買って帰ったら、沙優はどんな反応をするだろうか。多分、すごく拗ねるだろう。そして、俺が「お前だって買えただろ」って言ったら、「吉田さんが先に買っちゃったから!」って怒るに違いない。いや、そもそも、俺がここにいることすら気づいてないかもしれない。……いや、そんなはずはない。沙優は俺のこと、いつも気にかけてくれてる。きっと、俺がコンビニに入った瞬間から、俺の存在に気づいてるはずだ。じゃあ、なんで声をかけてこないんだ?これは、まさか……俺が声をかけるのを待っているのか!?)


吉田は、コンビニという日常的な空間で、まるでサスペンスドラマのような思考回路を巡らせていた。


その間も、沙優は真剣な顔でチーズケーキのパッケージを見つめている。だが、彼女が手を伸ばしたのは、吉田の狙っていた最後の一個だった。


「ちょ、ちょっと待て沙優!」


吉田は思わず声をかけた。沙優は驚いたように振り返る。


「吉田さん!?」


「お前、なんでここにいるんだ」


「それはこっちのセリフですよ!吉田さんこそ、こんな時間に何してるんですか!」


「お前こそ、バイト帰りか?」


「え、はい……って、そうじゃないです!このチーズケーキ、私が先に目をつけたんですから!」


沙優は、最後の一個を死守するように、腕でパッケージを抱え込んだ。


「何を言ってるんだ。俺が先に来てたんだぞ」


「うそです!私の方が先にここにいました!」


疲労困憊のサラリーマンと、家出女子高生による、コンビニスイーツ争奪戦が勃発した瞬間だった。


「俺は残業で疲れてるんだ。こういう時は、大人に譲るもんだろ?」


「ずるいです!私だってバイトで疲れてるんです!疲れてる度合いで言えば、私の方が上です!」


「お前はまだ若いから大丈夫だ!俺なんかもう、全身に湿布を貼って寝るような歳なんだぞ!」


「じゃあ湿布買って帰ればいいじゃないですか!」


くだらない、本当にくだらない言い合いだった。だが、お互いに一歩も引く気がない。吉田は「もういい、じゃんけんだ!」と、まるで小学生のように言う。


「望むところです!」


沙優も、まるで武士のように真剣な表情で頷いた。


「最初はグー、じゃんけん……」


「ぽん!」


吉田が出したのはグー、沙優が出したのはパーだった。


「やったー!私の勝ち!」


沙優は、まるで世界を救ったかのように飛び跳ねて喜ぶ。吉田は、ガックリと肩を落とし、まるで世界が滅亡したかのような表情で項垂れた。


「くそっ……俺の濃厚チーズケーキ……」


「あはは!ざまあみろです!」


沙優は、吉田の敗北を心から喜んでいた。だが、レジに向かう彼女の足取りは、少しだけ重そうだ。


吉田は、そんな沙優の後ろ姿を追いかけるように、自分もレジへ向かう。そして、沙優が会計を終えた後、二人並んでコンビニを出た。


「……悔しいか、吉田さん?」


沙優は、いたずらっぽい笑顔で吉田に尋ねる。


「当たり前だろ。俺の疲労回復剤が……」


「はい、どうぞ」


沙優は、吉田にチーズケーキの入った袋を差し出した。吉田は、一瞬何を言われたのかわからず、呆然とする。


「一口だけですよ。この勝負は、私の勝ちですから」


そう言って、沙優はチーズケーキを一口、吉田の口に運んでくれた。とろけるような甘さが、口いっぱいに広がる。


「……美味いな」


吉田は、そう呟いた。沙優は少し照れながらも、「でしょ?」と胸を張る。


「でも、次は絶対負けませんからね!」


「ああ、望むところだ。次こそは、俺が勝ってやる」


くだらないコンビニでの攻防戦。だが、そのくだらないやり取りの中に、二人の日常の温かさが、確かに存在していた。吉田は、もうあのチーズケーキを食べられなくても、まったく悔しくなかった。むしろ、今この瞬間が、何よりも甘く感じられた。

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