ひげを剃る。そして女子高生を拾う。番外編 ― 風邪と衣替え、そして旅立ち ―

五平

第1話「迷子のJKと迎えの男」

夕方の風が、まだ肌寒い季節だった。会社のビルの前で、吉田はスマートフォンを手にぼんやりと空を見上げていた。もうすぐ日付が変わる。残業続きでへとへとだったが、今日の仕事はなんとか終わった。定時という概念が自分の人生から消滅して久しい。このまま帰って、風呂に入って、沙優が作ってくれた味噌汁を飲んで、寝る。至ってシンプルな、だが以前の自分には考えられなかった幸せなルーティンだ。


そういえば、今日は沙優が新しいバイトの面接に行ったんだったか。もう帰っているだろうか。


「……あ、そういや連絡しなきゃな」


スマホを開いてメッセージアプリを立ち上げる。と、その瞬間、通知が一件。差出人は沙優。


「もしもし、吉田さん?」


文字ではなく、直接電話がかかってきた。珍しいな。吉田は一瞬戸惑ったが、すぐに通話ボタンを押す。


「どうした沙優、何かあったのか?もう家だろ?」


「あ、はい……それが……」


沙優の声は、いつもの明るいトーンではなく、少しだけ緊張が混じっている。嫌な予感がする。事故か?何かトラブルに巻き込まれたのか?吉田の頭の中に、最悪のシナリオが次々と浮かび上がる。


「あの、私……」


沙優が言いづらそうに言葉を濁す。吉田は落ち着かせようと努めて、深呼吸した。


「焦らなくていい。ゆっくりで大丈夫だ」


「はい……あの、私、道に迷っちゃいました」


「……は?」


一瞬、何を言われたのか理解できなかった。道に迷う?いやいや、今の時代、スマホがあるだろ。GPSがあるだろ。地図アプリを使えば、どこにいたって家に帰れるはずだ。


「えっと……スマホの充電が、もうほとんどなくて……」


沙優の声が、さらに小さくなる。なるほど、そういうことか。吉田は思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。最悪の事態を想定していただけに、拍子抜けだ。


「おいおい、冗談だろ。一体どこにいるんだ?」


吉田はそう言いながら、思わず笑ってしまった。


「笑わないでくださいよ!真剣に困ってるんですから!」


沙優は少しムッとした様子だ。その声を聞いて、吉田は安心して笑いを漏らす。


「まあ、わかったから。とにかく落ち着いて、周りに何があるか教えてくれ」


沙優は、自分の周りの状況を説明し始める。特徴的な看板や建物の名前、道路の様子。吉田はそれを聞きながら、スマホの地図アプリで場所を特定しようと試みる。


「コンビニがあって……その隣に、なんか変な形の像が立ってます」


変な形の像?吉田の思考回路が暴走を始める。もしかして、あの都市伝説の……いや、まさかな。そんな場所に沙優がいるわけがない。いや、しかし、沙優はそういう変なところに引き寄せられる天才だ。もしかしたら、このまま話を聞き続けていたら、未確認生物と遭遇した話を聞かされるかもしれない。もしそうだったら……。


「……吉田さん?聞いてます?」


「ああ、聞いてる聞いてる」


思考の暴走から現実に引き戻され、吉田は慌てて返事をする。どうやら沙優のいる場所は、自分の会社から少し離れた、あまり馴染みのない駅前のようだ。そこから家までは、電車を乗り継いでも一時間近くかかる。


「わかった。今から迎えに行く。そこで待ってろ」


「え、でも……悪いですよ」


「うるさい。俺の味噌汁担当が帰ってこないのは困るからな」


吉田の言葉に、電話の向こうで沙優が少し照れたような、それでいて嬉しそうな笑い声を漏らした。


「……はい。待ってます」


電話を切り、吉田はヘルメットを被ってバイクに跨る。残業で疲れていたはずなのに、なぜか身体が軽い。沙優が待っている。ただそれだけのことが、こんなにも自分を奮い立たせるのか。


迎えに行くまでの道中、吉田は沙優との日々を振り返る。最初は家事をさせるための同居人だった。それがいつの間にか、かけがえのない存在になっていた。彼女がいない生活は、もう考えられない。


バイクを走らせることおよそ三十分。沙優が言っていたコンビニと変な形の像がある広場に到着した。少し離れた場所から、寒そうに身体を小さくしている沙優の姿が見えた。


「おい、沙優!」


吉田が声をかけると、沙優はパッと顔を上げた。その顔に、安心と安堵が浮かんでいる。


「吉田さん!」


駆け寄ってくる沙優の姿に、吉田は思わず微笑む。もう彼女は、一人で泣いていたあの日の女子高生ではない。自分の居場所を、確実に見つけていた。


「寒かっただろ。ほら、これ着とけ」


吉田は自分のジャケットを脱ぎ、沙優の肩にかける。少し大きめのジャケットに埋もれるようにして、沙優は「ありがとうございます」と呟いた。


「……情けないですよね。こんなことで迷子になるなんて」


沙優は、少し照れくさそうに、申し訳なさそうに言う。


「別にいいだろ。たまには迷うことも大事だ。……ただ、次からは充電切れには気をつけてくれよな」


吉田の言葉に、沙優は「はい!」と元気な声で返事をする。


「さて、帰るか。お腹空いただろ」


「はい!今日は、吉田さんの好きなハンバーグですよ!」


「お、マジか。最高じゃん」


バイクに跨り、吉田は沙優に「早く乗れ」と促す。沙優は慣れた手つきで後部座席に乗り、吉田の腰に手を回す。


バイクが走り出す。沙優は後ろから、吉田の背中にそっと顔を埋めた。暖かい。この人の背中が、自分の帰る場所。そして、この場所を守りたい。そう、強く心に誓った。


「なあ沙優」


「はい?」


「俺の味噌汁担当、今日まで迷子になるの我慢してくれて、ありがとな」


沙優は、その言葉に何も言えずに、ただ吉田の背中を、ぎゅっと抱きしめた。

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