たった一つの、名誉ある証

@syubi01

第1話 その日、彼は「人間」を卒業した

 公益性公民強化推進組織。通稱「組織」。


 この国で「組織」に属するということは、すなわち、社会的成功の証明である。

 年収、社会的信用、結婚市場での価値――あらゆる側面において、一般人とは明確に一線を画す。

 公立学校の教科書でも「最も公正かつ有効な人材選抜制度」としてその存在が紹介され、

 全国の家庭において、我が子を「組織入り」させることは長年の夢であり続けている。


 そんな中、今年の「首輪授与選抜競技会」において優勝候補として最注目されているのが、

 エントリーNo.044番、朝倉 練(あさくら・れん)、18歳。


 本誌では、最終選抜を翌日に控えた8月15日、

 彼の実家にて特別に許可された単独取材を行った。


「首輪を授かることは、僕にとって“人間として完成する”って意味なんです」

 そう語る朝倉は、まっすぐな眼差しで記者を見つめていた。

 歯並びの良い笑顔、日焼けした額、鍛え抜かれた前腕――

 どこをとっても「典型的な組織候補生」と言える容貌である。


 父親は元・地方自治体職員。母親は小学校の教諭。

 共に教育熱心で知られ、幼い頃から朝倉には「組織入り」を前提とした教育環境が与えられてきた。


「物心ついた時には、玄関に組織の旗が飾ってありました。

 お父さんは毎朝それに礼をしてから会社に行くのが日課で。

 僕もそれを見て、自然と“自分もこうなるんだ”って思ってたんです。」


 朝倉の訓練は早かった。

 歩く前に四つん這いの体勢を取る練習を始め、

 小学校入学までには「鼻で物を探す」初級プログラムを完了。

 小三で正座12時間耐久に成功し、小五で「非言語加算判定(点頭式)」の全国模試で上位1%を記録。

 中学に上がる頃にはすでに「候補生専用プール」での水中吠声訓練も始まっていたという。


「どれも楽しかったですよ。“やらされてる”って感覚は一度もなかったです。

 だって、どの課題にもちゃんと“刺激”があるんですよ。

 次の自分を引き出してくれる感じ。痛みとか屈辱とかより、もっと奥の――生きてるっていう実感?」


 言葉に迷いはない。

 それは「洗脳された者の語調」ではない。

 むしろ、長年かけて熟成された「確信」の声であった。


 彼の部屋の棚には、過去の予選で獲得した賞状や認定証が整然と並び、

 ベッドの枕元には、模擬首輪(研修用)と手入れされたリード(装飾用)が丁寧に置かれていた。

 それはまるで、祈る者が神棚を拝むような、静かな場所だった。


「明日は、きっと“吠える日”になると思います。

 やっと、その声を出す資格が、手に入るんですから。」


 そう語る彼の声は、喜びでも誇りでもない。

 ただ、そこにあるのは「待ち望んだ順番が、ついに回ってくる」という静かな覚悟だった。


 最終選抜典礼は、明日8月16日午後三時より、全国ネットにて生中継される。

 今年の“首輪”が、いかなる者に与えられ、どのような声を上げるのか。

 今、国中がその「栄誉の瞬間」を見守っている。


 決戦当日、会場は朝から異様な熱気に包まれていた。

 全国大会の最終選抜が行われるこの「栄誉式競技場」は、例年の通りメディア関係者と観客席で埋め尽くされていた。


 主催者側によると、今年の応募者総数は約17万名。

 うち最終選抜に進んだのはわずか12名。

 彼らは皆、「国民の模範」として既に社会的注目を浴びている存在である。


 その中でも、やはり最も多くの視線を集めていたのは、エントリーNo.044番――朝倉 練であった。


 競技は、全7種目によって構成されている。


 第1競技は「四肢全着地持続移動耐久」。

 選手たちは足を使ってはいけない。

 腕と膝をつけた「全着地」体勢で、15kgの荷物を背負い、800mの距離を競う。

 路面はやや粗く設計されており、擦過による流血も少なくない。


 にもかかわらず、朝倉は軽やかに、嬉々とした表情で前進していった。

 フォームは美しく、指先と顎の角度に迷いがない。

 中継の解説者は「まるで犬種としての完成形を見ているようだ」と評した。


 第2競技「嗅覚限定探索」では、選手たちは目隠しと耳栓をされ、

 用意された複数の衣類の中から、事前に提示された「標準臭素布片」を鼻だけで探し出す。


 競技者の鼻先に置かれたのは、汗を含んだ布、洗い立ての布、

 動物の皮、アルコールを含むガーゼなど、多種多様。


 朝倉は、僅か7秒で標準片を的確に探し出した。

 顔を上げた時の、うっすらと汗ばんだ笑顔が、観客席から拍手を誘った。


 第4競技「点頭算術反応」では、与えられた数式に対し、

 言葉を使わずに首の動きのみで答える必要がある。


 司会:「3+2=?」

 朝倉:(明確なリズムで2回縦にうなずく)→ 〇

 司会:「8-5=?」

 朝倉:(3回うなずいた後、再び1回うなずき直す)→ ×(減点)


 瞬時の判断と表情制御、首の可動域が問われるこの競技において、

 朝倉は合計15問中14問正解という、過去最高クラスの記録を打ち立てた。


 彼の点頭には、どこかリズム感があり、解説者は「理性を保ちつつ感情を乗せるという極めて稀有な技術」と賞賛した。


 途中、第5競技の「小便統御技能測定」では、観客の反応にやや戸惑いが見られた。

 この競技では、与えられた「自由体勢選択条件」の下で、

 最低限の衣類を装着したまま、定められた角度での排尿を求められる。

 競技の本質は羞恥心の制御と膀胱圧管理にある。


 朝倉は、膝立ちでの体勢を選択。

 手を後ろで組み、顔を正面に向けたまま、完璧な放尿を成し遂げた。


 観客席では一瞬ざわめきが起こったが、

 主審の「極めて優雅な姿勢であり、教育映像への使用も可能」との評価で場が引き締まった。


 このような競技の連続にも関わらず、朝倉は終始笑顔を崩さなかった。

 苦悶も、緊張も、羞恥も、その表情からは一切感じ取れなかった。


 むしろ、そこにあったのは「悦び」と呼ぶべき感情だった。

 次々と与えられる「刺激」を、

 彼は全身で受け止め、その一つ一つを誇りと興奮に変換していた。


 最終スコア発表の際、彼の名が1位として呼ばれた瞬間、

 朝倉は自然と、四肢を地につける体勢に移行した。


 地面に額を近づけるその姿は、

 誰が教えたわけでもない――しかし、誰もが理解している「所作」であった。


 午後三時整。

 全国放送の生中継が、厳かに幕を開けた。


 司会は元・内閣官房参与の野々宮氏。

 審査員には現職国会議員、著名学者、歴代の首輪受領者らが並び、

 壇上には燦然と輝く「首輪」と「牽引用リード」が並べられていた。


 首輪は本革製で、内側には「第178回選抜優勝」の刻印がある。

 リング部分には、金属製の美しい装飾が施されており、

 それを支えるリードは、熟練工による手縫い仕上げ。

 すべてが、栄誉と格式を象徴する一品である。


 最終選抜者12名は、白の正装に身を包み、

 1名ずつ順番に壇上へと登壇していく。

 各自が受け取るのは「認可証」――だが、ただ一人、優勝者のみが「首輪」を授かる。


 呼び出されたのは――No.044、朝倉 練。


 名を呼ばれたその瞬間、彼はぴたりと動きを止め、

 一礼すると、静かに壇上中央に移動した。


 彼の表情には、言葉では説明できない「何か」が浮かんでいた。

 喜びとも、緊張とも、畏怖とも違う、ただひたすらに深い、何か。


 壇上中央に正座した朝倉は、

 審査員長の合図を受けると、ゆっくりと体勢を崩し――

 額を床につける、全着地の姿勢へと移行した。


 その瞬間、場内が静まり返る。

 カメラのズームが、ゆっくりと首輪の輪郭を捉える。


 組織の最高責任者である**理事長・神代 零(かみしろ・れい)**が、

 厳粛な面持ちで首輪を手に取り、

 朝倉の首元へと、優しく――しかし、確実に――はめ込んだ。


「……おめでとう。」


 その一言と同時に、カチャリと金具の閉まる音が響いた。


 次の瞬間、朝倉の肩が小さく震えた。

 目元が潤み、口元が歪み、

 抑えていた何かが、音もなく崩れ落ちていく。


 彼は、泣いていた。


 嗚咽でも叫びでもない。

 ただ、静かに――全身で、感謝と歓喜を噛みしめるように、涙を流していた。


 リードが繋がれると、彼は自然と、膝と掌を地に着けたまま前を向いた。

 理事長の手の動きに合わせて、首を少し傾け、従順に、整った姿勢を取る。


 その背中は、美しかった。

 一分の乱れもない、まるで陶器のような完成形だった。


 そして。

 全選抜者が壇上に並び、

 審査員長の号令が響いた。


「首輪授与者、号令を――!」


 朝倉が、顔を上げた。

 涙に濡れた頬を、照明が照らす。


 その口が、ゆっくりと開いた。


『――――わんっ!!!』


 壇上の全員が、それに続いた。


『わんっ!!』『わんっ!!』『わんっ!!』


 会場全体が、吠えた。

 テレビの前の視聴者たちが、それを目撃した。


 その光景は、

 まぎれもなく、この国における――最も美しい栄誉のかたちだった。

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