ラムネ瓶とチキンラーメンの彼方。
砂嵐番偽
ラムネ瓶とチキンラーメンの彼方。
失神しそうなくらいに耳をつんざく、蝉の鳴き声。
芝の上から揺れる陽炎に、ねっとりと絡みつく夏の空気。
あまりに長く続く拷問にも、いつしか慣れてしまっていた。
――十一歳の、ある夏の午後のこと。
僕はその日、公園の木陰にあるベンチで、ラムネの瓶を開けていた。
ラムネのビニールを剥がし、その上についている玉押しを手に取り、ビー玉を押し込む。
――カラン。
泡を立てて弾むその音は、まるで『私を味わって』と誘惑してくるようだった。
瓶を傾けた、その時――
「……はぁ、はぁ」
白いワンピースと大きな帽子を揺らしながら、ふらふら、と歩く少女が目に入った。
強い日差しの中で照らされる少女の肌は、とてもまぶしく、服と同じくらい白い肌だった。
「……み、みずぅ……のどかわいたぁ」
その美しい姿に似合わず、舌をだらしなく突き出して、苦しそうに顔をゆがめていた。
僕はその美しくも愛らしい少女に目を奪われ、息さえ止まってしまった。
思えば、これが初めて感じた、初恋のカケラだったのだろう。
十年経った今、そう思える。
――カラン。
手元が緩み、傾いた瓶のビー玉が転がって、そこでようやく僕は息を吸い込んだ。
まだ少女は、見かけた場所から四歩も動いていなかった。
彼女の様子が気になった僕は、たまらず駆け寄って声をかけた。
「えぇっと、きみ、大丈夫?」
「……えっ?」
僕の声を聞いて、初めて女の子はこちらを向いた。
そして、大きな帽子を深くかぶり直し、そっぽを向いた。
「えっと、だいじょうぶ、れす」
明らかに舌が回っていなかった。
「ううん、明らかに大変そうだよ。ほら、あっちで休もう。それと、これ飲んで」
まだ一口も飲んでいないラムネを、女の子に持たせた。
そして、女の子の手を引いて、涼しげな木陰のベンチに座らせる。
「えっと、その」
「遠慮せずに飲んで」
女の子は、心配そうに周りをキョロキョロと見回した。
口につけた瓶を一気に傾けた。
「……?あれ?」
ラムネの中身が減らない。どうやら瓶ラムネの飲み方を知らないようだ。
目を細め、瓶の口を覗いていた。
「えっとね、これって飲み方にコツがあるんだ。そこの凹んでる所に、ビー玉をひっかけるようにすると、飲めると思うよ」
「こ、こうですか?」
女の子は、恐る恐る瓶を傾けた。
――カラン。
ビー玉は凹みに引っかかり、泡のはじける音がした。
「あっ!」
女の子は、さっきまでのしぼんだ顔から、嘘のように弾んだ笑顔になった。
「うん、これで飲めると思うよ。ゆっくり飲んでね」
「はい!」
瓶が傾き、炭酸の泡が更に激しく踊り、彼女は、ぱちりと目を見開いた。
深い帽子の中で、大きな瞳がきらきらと輝いた。
僕はその様子を、はにかんで眺めていた。
「おいしい?」
「はい!とっても、おいしいです!」
勢いのよい飲みっぷりだった。
本当に気に入ったのか、くぅ~と呟きながら、体を震わせる時もあった。
そして瓶は、あっという間に空になってしまった。
瓶に残されたビー玉が、美しく輝いていた。
「おいしかった?」
「はい!……あっ」
女の子は、僕と空になった瓶をしきりに見て、突然頭を下げた。
とても丁寧な所作だった。
「もっ、もうしわけありません!ぜんぶ、飲んでしまいました!」
女の子は、人のラムネを全部自分で飲んでしまったことに、ようやく気が付いたようだった。
「いいよ、別に。気にしないで」
「きにします!おれいを……」
そうして彼女は、自分の腰のあたりをぽんぽんと叩き、何かを探し始めた。
だが、直ぐに動きをぴったり止めて、顔が青ざめ始めた。
「……どうしましょう、なにも持ってません!」
「いや、だからお礼は……」
「だめです!おんをうけたら、返さないといけませ」
ぐぅうううううう。
大きくお腹の音が響いた。
周りの蝉は今もなく続けていたが、不思議と周りに静寂が訪れた。
女の子は、真っ白な肌が真っ赤に染まり、強く服を握りしめていた。
誰のお腹の音だったのかは、明白だ。
「……えっと、ご飯、食べにくる?チキンラーメンしかないけど」
永遠とも思える静寂の後、女の子は小さくうなずいた。
恥ずかしそうに縮こまる女の子を見て、僕の胸の奥で、小さく鼓動が鳴り始めた。
♪
「……うん、三分経った。どうぞ、召し上がれ」
「……はい、いただきます」
部屋の時計は二時前。少し遅めの昼食だった。
僕は、女の子を直ぐ近くの実家――マンションの中に招待した。
両親は共働きで、まだ家に帰ってきていない。
今この家には、女の子と僕だけがいた。
女の子には、約束通り、棚に残っていたチキンラーメンと冷えた麦茶を振舞った。
出来上がりを渡してすぐは、恥ずかしそうにチキンラーメンを眺めていたが、空腹に耐えきれなくなったのか、恐る恐る箸に手を付けた。
箸を丼の中に入れ、麺を二、三本つかむ。そして、つかんだ麺をレンゲに乗せて、ふーっと息を吹きかける。
そうして冷ました麺を、ゆっくり音を立てず、ちゅるちゅると口に運んだ。
麺を全て口に入れた後、これまたゆっくりと音も立てずに噛みしめる。
僕はその当時、家の外の人達と、ましてやマナーのしっかりしている人と食事をした経験はなかった。
しかし、彼女の一つ一つの所作はとても丁寧なもので、子供ながらにも明らかに違う世界で生きていることを感じさせるものだった。
反応はまだ返ってこない。
妙に緊張した。
僕が振舞ったチキンラーメンは、一袋100円程の安価な袋ラーメンだ。
そんな彼女に振舞うべきラーメンだったのかと、後悔すらし始めた時。
ふと、彼女の頬から笑みがこぼれた。
「これ、おいしいです!!」
目をキラキラと輝かせながら、とても嬉しそうな声色で感謝した。
まるで極上の料理を食べたかのような感想だ。
今振舞ったのは、卵すら乗せてないプレーンなチキンラーメンだというのに。
ちくちくと胸に罪悪感が刺さった。
そんな後悔をよそに、女の子は次々に麺を平らげていった。
もちろん、上品に少しずつだ。
プレーンなチキンラーメンを、何一つ文句も言わずに食べていた。
「……気に入った?えっと……」
あまりに美味しそうに食べる姿に、少しずつ心のモヤが絆されていった。
だが、ここでふと、僕はこの子を何て呼べばいいかが分からないことに気が付いた。
女の子は、僕が何か言い淀んでいる事に気が付き、箸を丼の上へ静かに置いた。
「ごめん。ええと、僕は白樺歩(しらかば・あゆむ)っていいます。君の名前を、聞いてもいいかな?」
そう聞くと、少女は目線を逸らし、スカートをきゅっと軽く握った。
「……ごめん、言いにくいなら別に、」
「……阿澄と、およびください」
上目遣いになりながら、名前を答えた。
苗字は、名乗りたくないようだった。
当時の僕でさえ、聞かなくても何となく察した。
小綺麗な服装、丁寧な所作、人形のように整った顔。
間違いなく、お金持ちのお嬢様だと。
「……ありがとう、阿澄ちゃん。それで、なんであんな場所で、お腹を空かせてさまよっていたの?」
「……ならいごとが、嫌になったんです」
「嫌になったから、抜け出してきちゃったのかな?」
恥ずかしそうに唇を軽く噛みながら、小さく頷いた。
「……うん、わかるよ。大変だよね、習い事」
僕は、習字や塾に通っている自分を思い返して、自由を束縛されたかのような気分になっていた。
幼い頃の僕では、この程度しか考えが及ばなかったのだ。
阿澄ちゃんは、言葉に静かに首肯した。
「いいと思うよ。偶にはサボっちゃっても」
僕のクラスにも、毎日習い事で遊べない子がいた。
いつも遊びの誘いを断るときの、苦々しい顔が印象に残っている。
そんな思いをするくらいなら、偶にはサボっちゃってもいいんじゃないか。
そう、阿澄ちゃんを気遣ったつもりだった。
「ありがとうございます……でも、えっと」
小さく微笑んだ阿澄ちゃんは、すぐにその笑みを消して顔を歪めた。
「どうしたの?」
阿澄ちゃんは何かを言いたげに口を開きかけ、直ぐにやめる。
「……いえ、なんでもありません」
「……そっか。えっと、残りのラーメンを、どうぞ?」
僕が促すと、 阿澄ちゃんは箸を取り、ちゅるちゅると麺をすすった。
♪
ゆっくり時間をかけ、阿澄ちゃんはチキンラーメンを食べきった。
まったりとした表情で幸せそうに味をかみしめていたかと思うと、急に何かを思い出したかのように背筋を伸ばした。
「ご、ごちそうさまでした!」
そして僕の方へ向き直り、ぎこちなく正座をし、三つ指をついて頭を下げた。
「えっ、ちょっと、阿澄ちゃん!?」
「えっ?」
少なくともチキンラーメンを出してもらったお礼にしては、大げさすぎる所作に驚いてしまった。
阿澄ちゃんはこれが正しいのだと思っていたのか、僕の驚きように首を傾げていた。
「ご、ごめんなさい、何かまちがえてしまったのでしょうか」
おろおろと手を宙に浮かべていた。かわいい。
「ううん、ただやけに丁寧なお礼だなぁと思っただけだよ」
「はぅ……」
阿澄ちゃんは顔を赤らめて、視線を落とした。
そのとてもの愛らしい仕草に、気づけば僕の手は彼女の頭に伸びていた。
「よしよし」
「ふぇっ」
しまった。
初対面の、しかもお嬢様みたいな女の子の頭をなでてしまった。
慌てて手を引こうとした。
すると、阿澄ちゃんは大人しくなり、逆に僕の手に頭を擦り寄せてきた。
「……ふふ」
てっきり拒まれるかと思ったけど。
その笑顔は、すっかり僕を受け入れてくれたようだった。
「……えっと、歩さん」
「うん?」
阿澄ちゃんは、意を決したような、きりっとした表情になった。
話を聞こうと頭から手を離すと、少し名残惜しそうに僕の手を見つめて、すぐ真面目な顔に戻った。
「その……わたし、家出、してきたんです」
「……そうなんだね」
何となく、そんな気はしていた。
こんな小さな子が、何も持たず、お腹もすかせて歩いているなんて、おかしいとは思っていたから。
「でも、大丈夫?お家の人、心配してると思うよ?」
阿澄ちゃんの顔を覗き込みながら、穏やかに声をかけた。
「……かえりたく、ないです」
声は小さく、声が震えていた。
「阿澄ちゃん……」
「……わたし、どうしたら……」
その声を聞いて、僕は少しの間沈黙した。
この子の為に、今何かできる事はあるだろうか。
小学生だった僕に、取れる選択肢はそう多くなかった。
頼れる大人も、今は近くにいなかったから。
「なら、逃げちゃおう。遠くまで」
「……えっ?」
「電車に乗って、遠くまで行こう。誰にも見つからない所まで」
阿澄ちゃんは、何度か瞳を瞬かせた後、大きく頷いた。
大きな目を輝かせ、――ほんの少し、その輝きに陰りが見えた気がしたが――その顔は、期待に満ち溢れる、ワクワクしたものになっていた。
「はい!」
何も疑っていない、純粋な眼差しだった。
この期待を裏切ることはできないと感じた僕は、直ぐに準備をした。
冷蔵庫の麦茶や、戸棚のお菓子をリュックに詰め込んで、貯金箱の中身をひっくり返して財布に押し込む。
僕なりの『家出セット』ができあがった。
そして、メモと鉛筆を取り出す。
『友達と出かけます、帰りは遅くなります 歩』と書置きし、リビングのテーブルに置いた。
「はい、どうぞ」
僕は、家出セットを詰めたリュックを阿澄ちゃんに手渡した。
「ありがとうございます!」
彼女は手渡されたリュックをさっと背中に背負う。
ゆさゆさと楽しそうにかばんを揺らしていた。
「さあ、行こっか」
「はいっ!」
僕たちはマンションを飛び出し、駅へ向かって走り出した。
後ろに伸びる影は、既に長くなり始めていた。
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