第30話
穏やかな風が吹いた。
夏らしくない、涼を多分に含んだそれは白いカーテンを揺らしてそよぐ。窓から覗く夕焼けは眩しくて、けれどそれを微塵も不快だとは思わない。暑さも寒さもない、生きているのか死んでいるのか曖昧な感覚に身を委ねていると、聞き慣れた声が耳をくすぐった。
「……気分はどうかな?」
彼女は落ち着いた笑みを湛え、歩み寄りながらそう尋ねる。今朝から、彼女の雰囲気は変わらない。悲痛と安堵を混ぜたような、そんな脆い感情を隠しもせずに接していた。
その彼女の顔を見る度に、申し訳ない気持ちと、自分に対しての怒りが込み上がる。
「大丈夫です。ありがとうございます、坂月先輩」
「……礼には及ばないよ。白鳥、キミが無事で何よりだ」
彼女は近くにあったパイプ椅子に腰掛けて、ベッドに臥せる僕を覗き込む。吸い込まれそうな瞳が僕の姿を反射させて、気まずくなって目を逸らす。
「どうして、目を逸らすんだ?」
「……だって、迷惑掛けましたし……。先輩のおかげで、助かったんですけど、合わせる顔がないっていうか……」
これは聞かされた話だけど、天嵐山の頂上で、倒れていた僕を助けてくれたのは坂月先輩だった。どうして居場所がわかったのか、聞けば僕から着信があって、それで自分から場所を言っていたらしい。当然、そんな記憶もないわけだけど、あの時、化野が色々とスマートフォンを弄っていたのは憶えている。きっとそれのおかげなんだろう。
それから病院で一夜を過ごした僕は、こうして坂月先輩にお見舞いをされて今に至っていた。
「坂月先輩には、お世話になりっぱなしですね。今日のことだけじゃない。ずっと、僕は先輩に甘え続けちゃってました。……すみません」
彼女がいなければ、今の僕はない。そう言えるぐらいには、坂月先輩の存在は大きい。だからこそ、どんな表情を浮かべればいいのか。どんな感情で話せばいいのか迷って、俯いてしまう。
しばらく、自分の手を見つめていると、こちらを見ていた坂月先輩の気配が遠のいた気がした。
呆れられたか。当然だろう。寧ろ遅すぎるぐらいだ。これまで付き合ってくれていたことに感謝こそするべきだし、嘆く権利は僕にはない。
いっそ嫌ってくれた方が……、それは苦しいけど、先輩のためになるだろう。
そんな自分勝手に現実逃避をしているところへ、ドサッ、と重い何かがテーブルに乗せられた。
視線を投げてみるとそこには紙の束。坂月先輩が手を置くそれに、僕は見覚えがあった。
「……キミの小説だ。全部読んで、そして修正点や感想を書き加えている」
「……どうして――」
どうしてそこまでしてくれるのか。先輩にとって僕は面倒くさくて手のかかる、重荷である存在でしかないはずだ。
なのに、彼女は嫌な素振り一つ見せずに、僕の小説を読んでくれる。僕と目を合わせる。僕に寄り添ってくれる。
なんで――
「言っただろう? キミの小説が好きだからだよ」
坂月先輩は、躊躇う様子も見せずにそう言い放った。それから少し、呼吸を繰り返す音がして、再び彼女の声が病室に響く。
「――キミがこれを書いた想いは聞いたよ。いつの日かの幽霊のためだということもね。けれど、その中身はキミ自身の叫びも、多く含まれて書かれていた」
「……主役は、化野ですよ」
僕はゆっくりと首を振る。そうじゃなくて、これは化野 幽のための小説なんだ。彼女という存在を形として残すため、僕が記したノンフィクション。僕が主役なんかじゃない。
「自分で書いていたじゃないか。キミと化野は、同じような存在だと」
「それは……」
言葉に詰まる。たまたまそうなっただけで、僕の想いを彼女に乗せたわけじゃない。
僕は、本当に化野のために筆を執ったんだ。
「化野がキミと鏡合わせなら、逆もまた然りじゃないかな。……化野は自分のためにも動ける存在だった。なら、この小説もキミは自分のために書いた可能性だって、あるだろう」
「……だから、僕は化野のために――」
本当に、そうだろうか。だって初めは小説のネタになればと化野に近づいたじゃないか。それを今さら綺麗事になんてできるはずもない。
そうか。僕はこの小説を通して、自分を正当化しようとしていたのかもしれない。化野のためだって、だからつまらなくても許してくださいって。知らない内に、言い訳に使っていたんじゃないか?
本当は、僕は化野のことなんて一ミリも考えてなくて、ただ自分のためだけにこれを完成させたんじゃないか。
「……私はね、それでいいと思うんだ」
迷って悔いて、自分のことを信じられなくなっていた僕の頭上に、先輩の暖かい声が浴びせられる。
何が良いというのだろうか。人の存在を、境遇を利用しているというのに。
「創作は自己表現の場だよ。誰かのため、と志す分には立派だけどね。高尚な理想をテーマとした作品や、類い稀なる最高な完成品なんて、求めてない。少なくとも私はそうだ」
はっきりと、先輩は言ってくれる。その思い切りのよさに救われる部分は多大にあって、今も僕の脳を覚醒させようと揺らしてくる。
「私はね、泥臭くていじらしいキミのそんな小説が好きなんだ」
先輩の声が、射し込む夕日に溶けて混じる。
「……大人らしく背伸びしようとして、身勝手で等身大な、キミが描くストーリーが好きだ」
甘く、切ない声が耳に震える。陽光の中、影と共に佇む彼女は遠くの世界を見ているように、幻想的で刹那的で――
「――キミが、好きだ。白鳥」
壊れそうな顔で笑う先輩に、僕は思わず、息を止めた。
夢のような、目の前の光景。彼女のその言葉が、僕が作り出したまやかしであるはずもなくて、はっきりと届いたそれに、どんな顔をして応えていただろう。
「……えっと――」
「ああ、いや。返事は、キミが退院してからでいい。……それまで、待っているから」
触れた想いは、未だ崩れない。崩したく、ない。それを心の内にしっかりと大事にしまって、僕は頷いた。
「……はい、必ず。……あと僕からも、一ついいですか?」
「……いいよ。何でも言ってくれ」
鼓動が早鐘を打つ。作り出された血が体内を駆け巡り、体温を上昇させる。その割には、指先が冷たくて、思考も透明に澄んでいた。
僕なんかでいいのだろうか、という思いは今は封じ込める。
深呼吸を一つ。橙色に染まる部屋に描かれる影が、やけにぼやけて映る。
そんな中で僕は、はっきりとした輪郭で浮かぶ先輩に向けて、胸の奥からそれを吐き出した。
「――先輩のこと、僕も好きです」
息と共に、言葉が消える。それが彼女の耳に届いたことが確信できたのは、先輩がその瞳を丸くさせたから。
それを見届けてから、僕はまっすぐに彼女を見つめて紡ぎ続ける。
「返事は、僕が退院してからで、お願いします」
「……ふふ、わかったよ」
先輩の表情が泣きそうなほどに脆くて、けれど先ほどまであった緊張は和らいでいるようだった。
ようやく、いつもの日常に戻ったような心地がした。元々は僕が原因なんだ。もう二度と、こんな思いは嫌だし、先輩にもしてほしくない。
「それじゃあ、今日はもう帰るよ。お大事にね、白鳥」
「はい。先輩も、気をつけて帰ってください」
「ああ、ありがとう」
再び、外から涼しい風が吹いた。柔らかく爽やかな、この空間そのものを現したようなそれに、僕は笑い、先輩もはにかんだ。
先輩と僕との日常はきっと変わらない。それは願望でしかなかったけど、そうなるように努めよう。それがせめてもの、先輩に対しての恩返しになれるなら。
坂月先輩を見届けてからも、未だ心臓が高鳴りを続けている。
部屋に満ちる夏の匂いを吸い込んで、僕はベッドから降り立った。しばらくこの空間に身を委ねていたかったけれど、自然と体は動いていた。
足はほとんど無意識に前へ歩む。けれど意識はしっかりと、目的を見据えている。
病室を出て、目指す先。
それはこの夏の思い出。
陽炎のように見えた幻。
背中を押されるようにして僕は、夏に向かうその扉を開くのだった。
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