第29話

 きっかけは、幼稚園にいた頃。

 体が弱かった私は基本的に外に出て遊ぶようなことなんてしなくて、いつも一人室内で折り紙を折っていた。聞こえてくるのは外から響く元気な声。それにただぼんやりと耳を傾けて、自身の殻にこもっていた。

 羨ましいとか、楽しそうだなとか。そんな感想は湧いてこなかった。折り紙だって楽しいし、どちらかと言えば一人で遊んでいた方が気が楽だと思えたから。

 そう、思っていた。


「えっ!? また駆けっこで一番だったの!? 凄いね~!!」


 また別のある日、そんな会話が聞こえてきた。

 それほど暗くもない時間。けれど、そろそろ一日が終わろうとしている夕方。迎えに来た誰かのお母さんがそう褒めていた。それを他のお母さんたちも褒めそやして、先生もそれに参加している。

 その光景を遠巻きに眺めていた私の中に、去来するのはどんな感情だったのか。昔過ぎて思い出せないけれど、少なくとも心を動かしたのは事実で。

 気がついてしまったんだ。

 私は、輝けないことに。

 駆けっこで一番を取ったり、花丸を貰えたり、縄跳びが多く飛べたり、そうして皆が皆、認められて育っていく。誰かの心に印象付いて、そうして世界へと浸透していくんだと、この時になってようやく知った。

 この空には、無数の星がある。それらは宝石のように楽しく輝いて、自分がここにいることを主張する。


 ――私は、何なんだろう。


 皆のように輝けないし、独りぼっち。まるで別の世界を見ているかのような、そんな感覚に陥ってしまう。

 このまま私は殻にこもって、誰にも認められないことをし続けるのか。まるで初めから生きていなかったかのように、生きて、それから誰にも見届けられることもなくこの世を去るんだろうか。

 そう思うと怖くて、不安で堪らなかった。

 自分がいなくても世界は回る。たった一人、何の影響も与えない。私が大好きな、星のようには、なれない。

 だから、その日を境に変わろうとした。


「おはようございます!!」


 まずは元気よく挨拶をするようになった。元々体も弱くて根暗な性格というか、すぐに体力もなくなるせいか積極的な性格ではなかったんだけど、とにかく挨拶を始めとして、色々な人たちと話そうと思った。

 そうすることで、誰かの心に少しでも残りたかった。

 一人じゃなくなる。認められなくても、誰かの心には残るはずで、私という星を覚えてくれる一助となればと必死だった。

 その甲斐あってか、この幼稚園という歳の頃では元気よく挨拶できるというのは何よりの美徳で、私の変わりようもすぐに受け入れられて馴染むことができた。


 問題は小学校の頃。高学年ともなると元気の良い挨拶は疎まれる要因となって、私はクラスから浮いた存在になっていた。

 登校回数が少ないというのも悪目立ちした一因だった。結果私は孤立して、また暗い海の底に沈もうとしていた。

 それでも、藻掻き続ける。遠く、ずっと先に観える、その願いに向かって手を伸ばし続ける。

 登校したらまずは元気よく挨拶。それからどれだけ芳しくない対応をされても明るく話す。笑顔を絶やさず、表情豊かに、楽しそうに振る舞った。自己満足だと言われればそれまでだけど、当時の私はそんなことを思う余裕もなくて、顧みれなくてイタかった。もっと上手いやり方があったのかもしれなかったけれど、私にはそれしかないと思い込んでいた。

 精一杯に、光ろうと走り続けて、背後から忍び寄る薄暗い影を振り払おうと前を向き続ける。私には、それしかできなかった。

 ただ、ある日を境に、その苦しみも終わりを告げる。


「……化野さんって、いっつも元気だよね」


 大人っぽくて、その目つきからは強気な性格であることが窺える、そんなクラスメイトの優しい顔。独りぼっちで席に座る私を、覗き込む宝石のような瞳は今でも覚えている。

 それが、山中 百合ちゃんとの出会いだった。登校している間、彼女はことあるごとに私の元へとやってきては、他愛もない会話をしてくれるようになった。百合ちゃんはクラスでも人気者で、私とは真逆の存在。そんな人に認識してもらえた私は、次第に教室でも浮いた存在ではなくなっていた。

 そう、認められたんだ。教室が無味乾燥な灰色から、極彩色に切り替わった感覚に襲われる。

 私はここにいていい。世界の一員として迎え入れられた、そんな思いだった。満たされて、幸せを噛み締めて、何一つの憂慮もない爽快さが吹き抜けていく。

 もっと頑張ろうと思えた。百合ちゃんをがっかりさせたくなくて、自分を忘れて貰わないために、より一層印象付けるために努力をした。勉強だって好成績を取り続けたし、苦手な体育だって、できる限り参加するようには努めた。


「……もう、体弱いのに無茶するんだから」


 結果として、クラスの皆からはすっかり認められたけど、その分通院する回数は増えてしまっていた。


「ごめんね。……いつもありがとう、百合ちゃん」


 病院のベッドに座る私を、彼女は諦めた様子で見つめてくる。

 百合ちゃんは私が学校を休むと必ずといっていいほど、いつもお見舞いに来てくれた。その度に、休んでいた時にあった学校での出来事とか、最近ハマっていることとか、このドラマが面白いとか駅前に新しくできたお店に行ってきたとか。

 そんな話をしてくれて、私はそれを聞くのが好きだった。

 それから時間は進み続けて、私と百合ちゃんは小学校を卒業。そのまま地元の中学校に上がっていた。

 それでも日常は変わらなくて、私は入退院を繰り返して、百合ちゃんはお見舞いに訪れてくれる。


「なんでそんなに頑張るの?」


「え?」


 高校に上がってすぐのこと、いつも通り話す百合ちゃんは、難しい表情でそう尋ねてきた。予想していなかった、というよりも脈絡のないその質問に、私は面食らってしまう。


「どうしたの? 百合ちゃん」


「別に……、ただ幽っていつも明るく振る舞おうと必死だから。何か理由でもあるのかなって」


 最早彼女には私の本性は見抜かれていた。元来根暗で、進んで他人と関わろうしない性分であることを。それは私自身からも伝えたことだったし、彼女もそれをわかった上で、友達でいてくれていた。

 でも、改めてそう言われると困ってしまう。人に話すようなことじゃないし、きっと百合ちゃんを困らせてしまう。だから私は、適当にはぐらかそうとした。


「そんな、人に話すような理由じゃないよ」


「……ふーん。あたしはこれだけ話してるのに、あんたは話してくれないのね。……はあ、友達だと思ってたのはあたしだけなんだ」


「いや違うよ!? 私も百合ちゃんのことは大切な友達――、ううん親友だと思ってるからね!? だからそんな悲しそうな顔でこっち見ないで!!」


 私が必死に言い訳を並べていると彼女は、冗談、とそう言って軽く笑ってくれた。それに私もつられて笑ってしまう。

 いいなあ。この空気を壊したくないなあ。

 そう思うけどそれは私のわがままで、いつまでもそれに彼女を付き合わせるわけにはいかない。幸せの余韻を楽しんだ私は、窓から囁く風に言葉を乗せる。


「……でも、本当に大したことない話なの。きっと、百合ちゃんをがっかりさせるかもしれないし」


「それを決めるのはあたしだから、別に気にしなくてもいいんだけど。……でも、幽が言いたくないなら、言わなくてもいいけど?」


「ううん。百合ちゃんになら、百合ちゃんだからこそ、言いたいの」


 嫌われてもおかしくはない。変な人だと判断されても文句は言えない。それでも私は、決心をして私が私である理由を零す。


「……私ね、時々この世界で独りぼっちになっちゃって。誰にも観られなくて、誰からも意識されなくて、夜の闇に吞まれて消える。……このまま、消えたままで存在を忘却されて生きていたことすら残らない、そんな考えが頭を過るの。ううん、過る、とかのレベルじゃなくて、その思考から抜け出せなくて溺れて苦しんで、逃げるように思考を止めちゃって……」


 胸元をぎゅっと掴むけど、それで何かが変わるわけもなくて、痛みはずっと心から消えてくれない。


「皆みたいに輝けない。皆が当たり前にできることができなくて、その瞬間に私は、星になれないんだって、そう思ったの」


「……星?」


「うん。空に浮かんでる……、私の憧れ。星の光ってね、ずっと昔の光なの。それが地球まで届いてて、私たちはそれを観ていて。……だから、もうその星が亡くなっても、気付けないんだよ」


 いま自分はどんな顔をしているんだろう。悲しい顔かな、それとも苦しそうな表情かな。できるだけ明るく言うようにしようとしてるけど、上手くいってるかな。小さな呼吸を繰り返して、私は膝に掛かるシーツに視線を落とす。


「でもね、亡くなった後も誰かの目に留まってくれていたなら、それって幸せだなって、そう思うの。……私が死んじゃっても、誰かに憶えていて欲しいから。――だから私は少しでも皆に憶えていてもらうために、今さら頑張ってるフリをしてるんだ」


 しっかりと笑顔を作って、百合ちゃんの方へと向ける。心配かけたくなくて、少しだけ明るく言ってみせた。同時に浮かんでくるのは罪悪感。私のつまらない話を、聞いてくれたこと。それから自分勝手な考えで百合ちゃんを巻き込んでしまっていることを後悔して、喉から落ちる言葉を止められなかった。


「――ごめんね」


 そう、謝るのと同時に、風が吹いた気がした。

 それは開いている窓からのものじゃない。もっと優しい、全身を包むような柔らかさを帯びていて。

 それから、椅子が倒れる音と一緒に満ちる、甘い香り。眠たくなるぐらいに心地良い温もりに、私は触れる。


「百合ちゃん?」


 彼女の綺麗な髪が間近に映る。いつもよりずっと近い距離に彼女の顔はあるのに、どんな表情をしているのか、見たいのに見えない。


「……ねえ、幽。あたしって、そんなに頼りないかな?」


 彼女の声は震えていて、辛そうだった。私に寄り添うその体は、普段よりもずっと小さくて、触れれば壊れてしまいそうなほど、脆く映る。


「ううん。百合ちゃんは私にとっての憧れ……、一番星だよ」


 だから優しく、その背中に手を預ける。支えるように、少しでも彼女の苦痛が和らげばいいなと、そう願いを込めながら。


「……それは、あたしもだよ」


「百合ちゃんも?」


「うん。幽って、他の人よりもずっと必死だったから。あたしからすれば、それが凄く眩しくて。……綺麗だなって、そう思えたの」


 嗚咽が病室に響く。私のためだけにこうして泣いてくれている人がいる。誰からも観られていない場所だけど、この一瞬、この空間だけは誰にも知られたくないなって、わがままだけどそんな考えが浮かんでしまう。


「だから――」


 体から温もりが離れていく。代わりに映るのは、目元を腫らした、百合ちゃんの綺麗な顔。睫毛がしっとりと濡れていて、瞬きをする度に軌跡を描く。


「死ぬ前提の話なんてしないでよ。もっとあたしに話してよ。……ずっと、あんたのことを覚えているから、もっと生きようよ」


 額が触れ合って、彼女の熱を感じる。息も掛かるほどに近い場所で、私は彼女の言葉を受け止めた。

 嬉しかった。

 ここまで言ってくれて。

 申し訳なかった。

 こんな辛い思いをさせてしまって。

 胸の中が様々な感情で混ざり合って、呼吸をすることにも苦しさを覚えてしまう。吐き出そうにも、出てこようとしているのは空虚なものばかり。

 一度それらを飲み込んで、私は笑った。


「……ありがとう」


 百合ちゃんの想いも私の想いも、全部ぜんぶ、空に上がる星のように煌めかない。水面下での出来事が映ることはなくて、表舞台に上がるのは、もっとシンプルで美しいものだけ。

 でも、もうそんなことを気にしなくてもいいかなって。

 そんな感情が風に溶けて、白の空間に満ちていった。


 それから、私は星を観るのを最後にしようと思って、教えられた場所に一人で星を観に行った。結果、そこで体調が悪化してしまい、簡単にあっけなく、人生の幕を閉じた。その辺りの記憶は曖昧で、ほとんど何も覚えていない。

 気がつけば、私は幽霊として意識を取り戻していた。

 当然肉体はない。時間の間隔もズレていて、今がいつなのかも覚えていなかった。

 けどしたいことはあった。自分のために泣いてくれた友人に謝ろう。そう思って、会いに行った。


「百合ちゃん――」


 その結末は言うまでもなくて、認識すらされずに私の声が虚空を叫ぶばかり。どれだけ呼び掛けても、私がその世界に干渉することはもうないんだと、そこで知らされた。

 これは罰なんだ、ってそう思った。私が身勝手でわがままに生きたから、神様が償わせるために私を幽霊にしたんだ。

 だからずっと、贖罪の気持ちを抱いたまま過ごしてきた。観測されかたった私は、誰にも観測されない存在となって、ただ街に漂い続ける。

 どれだけの季節が巡って、何度目の夏を迎えたかな。することもない私は、いつものように星を観ようと学校の屋上にいることが多くなっていた。

 そこは生前では見つけられなかった、星を観るためにはうってつけのスポットだった。星を観ていると胸が締め付けられるけど、同時に慰めてもらってるような気持ちになれて、つい甘えてしまう。


 その日も、私は屋上にいた。時刻は夕方。最終下校時刻が迫る中、生徒たちの声が楽しそうに響く。

 屋上の屋根に座っていた私は、それを聞きながら何度目かの夜を迎えるための準備をしていた。

 そこで、出会ったんだ。

 今にも死んでしまいそうな、そんな顔をしている『君』に。

 『君』はつまらなさそうな瞳をして、夏の夕刻を享受していて、どうしようもなく不安定に見えた。

 その表情に、見覚えがあった。彼とは全くの知り合いではなかったけど、この世全てに否定されてしまっているかのような、物悲しそうな顔つきを、私は知っている。

 記憶に染み付く、鏡に映った自分の顔。それを思い出してしまった。

 そして『君』がフェンスに手を掛けた時、私の胸がざわついた。目の前の男子生徒に何があったのか知らない。誰なのかもわからない。けれど、絶望の香りを漂わせているのはわかる。もしこの人が屋上から飛び降りようとしているなら、止めないと。

 そう思い至って、思わず声が出ていた。幽霊なのに。誰にも観測されない存在なことを忘れて。意味がないはずなのに。生意気にも、誰かを救おうと思ってしまった。

 そんな、私のためじゃなくて誰かのために発せられた声は、風に掻き消されることもなく、夕闇に溶けることもなかったようだった。

 それを受けて、『君』は振り返ったから。


 初めはたまたま、そうしただけかと思った。だって私が幽霊になって、一度も反応されたことなんてなかったから。誰かからの答えを期待して、叫んだわけじゃないし、そんな気持ちはとっくに薄れていた。

 だから、『君』と話せた時、『君』に触れられた時、『君』と目が合った時。

 『君』が、笑った時。

 私は夢を見ているんだと、そう思った。罪を犯したのに、神様はこんなに嬉しい瞬間をもたらしてくれるのかと、感謝して願った。

 神様、できることなら。私と瓜二つな彼を救いたい。『君』と過ごす時間が、少しでも長くなりますように、と。

 どうして私と関われるのか、そんなことはどうだってよくて、今はとにかく私のような『君』を助けたかった。ううん、それはきっと正しくない。私はどこまでいってもずっと自分本位で、身勝手だ。

 この期に及んで、まだ縋っていた。憶えていてほしいって。幽霊である私を知って、忘れないでほしいって。

 私そっくりな『君』は動揺していたけど、それでも快く受け入れてくれた。


 それから私たちは、私が抱いている未練を探すために色々な場所に赴いた。

 本当は、知っていたのに。私が、ここにいる理由を。まだこの世に留まっている未練について、一番理解していた、はずだけど。

 でも黙っていた。知らないフリをして、気がつかないフリをしていた。そうすれば、この時間が長引いて、『君』の心に残ることができるって、未練がましくそう思ったから。

 世界から希望を奪われた、大げさだろうけどそんな顔をしていた『君』を元気付けるため。

 私もまた、私のことを『君』に覚えてもらうために。あるいは、何だかんだで私も『君』との時間を楽しもうともしていたのかもしれなかったけど。

 誰かと行く思い出の場所。誰かと観る映画。誰かと遊ぶ海。誰かと誰かの恋模様。

 そして、誰かに打ち明ける、私のこと。

 星たちが見下ろす美しい夜の中。私は『君』に告げた。

 私と『君』が同じだってこと。『君』の迷いも戸惑いも、全部わかってしまえるということ。確信を持って、そう言えた。

 『君』の曇りは晴れて、これからきっと輝きを取り戻すのだと、そう思えた。だから、それでサヨナラになるはずで、会わないのが正解だと、思っていた。


 でも、違った。そうじゃなかった。私が視えなくなった『君』はまた酷く憔悴してしまって、不安定に戻ってしまった。

 私と過ごした場所をもう一度巡って、私との日々を辿るように過ごす『君』。その足取りは重くて、辛そうに映る。

 どうして『君』はそうなってしまったんだろう。せっかく星のように瞬けるはずなのに、そんなに苦しい顔をしているんだろう。

 私も『君』を追いかけてしまっていた。また見つけてもらえたら、そう思っていたのかもしれないし、『君』の痛みを緩和させたいとも思っていた。

 どちらにしても、『君』のことが気になってしまっていたのは事実だった。

 『君』が文芸部の部室に置いた小説も、読ませてもらった。坂月さんが読んでいたものを隣から覗き込んだだけだけど、内容を知って驚いた。

 それは、幽霊の少女ととある男子生徒が出会う物語。夏に出会った彼らは何気なく日々を過ごし、そして少女の想いにも触れて、ストーリーは進んでいく。


 そして結末。幽霊の少女が視えなくなった男子生徒は、自らその命を絶って、彼女に会いに行こうとする。主人公のその後は曖昧なままに、そこでその話は終わっていた。

 よくあるような筋書きで、特に伏線があるようなものでもない。でも、私にとってはその話の意味合いは変わってくる。

 これは、私と『君』の物語だ。そして、まだやって来ていない展開まで書かれている。

 もし、この小説の男子生徒が『君』だったとしたら。

 そんなしたくもない想像をしてしまって、すぐに否定する。そう思いたくなかったから、目を背けただけなのかもしれない。

 そんなはずはない。これはただのフィクションだ。

 そうやって、胸を締め付ける嫌な予感から逃れようとする。私は卑怯な人間だから、何かと向き合おうとする勇気なんて持たなかったから、また自分のことだけを考えてしまう。

 それでも『君』のことが心配で、追い掛けて山を登って――、手首から血を流す、『君』を見た。


「白鳥くん――――っ」


 やっぱり、これは天罰なんだ。

 駆け寄りながら私は、そう思った。


「……化野――、やっと、会えたな」


 『君』は浮かばれたようにそう朗らかに笑っていた。そんな場合じゃないのに。今まさに、『君』の命が消えていこうとしているというのに、どうして笑っていられるんだろう。


「白鳥くん……、どうして――」


 いや、理由なんて後回しだ。今は『君』を救いたい。救わないとだめだ。だけど、どうやって? 私は幽霊だ。誰にも認識されなくて、誰も私を見つけられない。

 誰も――


「……すみませんっ」


「……化野?」


 たった一人いるじゃないか。私が触れられる相手が、目の前に。

 『君』の声に応じたかったけど、でも今は一刻を争う。私は、躊躇いながらも『君』の手を握った。

 温かい。あの時、初めて『君』に触れた際に感じた温もりを、手に取ることができた。こんな状況じゃなかったなら、委ねてしまいそうになる心地だったけど、私は急いで両手を使って『君』の手を動かす。

 その手でポケットからスマートフォンが取り出される。指紋認証も無事突破できると、液晶の光が夜を拭い眩しく照らした。そのまま私は電話帳を開いて、直近に通話履歴のある相手に連絡を飛ばす。

 静かな夜。虫の声が遠くにうっすら聞こえるぐらいで、風も吹いていない。

 そんな中、『君』の声だけがくっきりと耳に届いた。


「助けてくれようとしてるのは嬉しいけどさ、多分僕は助からないよ」


「……白鳥くんは、どうしてこんな――」


 そんなことはわかっている。私のためなんだ。『君』をこうしてしまったのも、私が変に願って、希望を見出してしまったから。

 私が、そんなことを言う権利なんて、ない。


「――ごめん、化野。僕にはこうしてあげられるしかなくてさ」


「……っ!! 死ぬことが、私のためだって、言うんですか……!?」


 思わず、叫んでしまっていた。言葉が上手く紡げなくて、口から出てくるものは、ボロボロな未完成品。

 違う。そんなことを言うつもりはない。私は、謝りたいのに、吐き出してしまうのは私の嫌いな、私。


「化野のせいだって、言うつもりはないよ。僕は僕の意志でこうしてるんだ。化野が気に病むことはない……、って言っても、気にするよな」


「――当たり前、じゃないですか」


 人の死を目の当たりにして、しかもその遠因が自分にある。それで気にならない方がおかしい。私の声に、ごめん、と。『君』は申し訳なさそうに添えると、私はスマートフォンから手を放して、血が流れる彼の手首を抑えた。

 わかっていたけど、それに意味はない。血は私の手をすり抜けて流れ出ていき、命が零れていく。


「僕さ、小説を書いたんだ。化野と僕の、日記みたいな内容の小説をさ」


「……読みましたよ。坂月さんが読んでいるのを、隣で」


「そっか」


 恥ずかしそうに顔を顰めて、それから『君』は続ける。


「よくある恋愛小説っぽいから、あれを認めてもらうのは大変だと思うけど、でもノンフィクションなら拾ってくれる人がいると思っててさ。だから、あの結末をなぞることで、小説は初めて完結するんだよ。……発表する人は、僕じゃないけどな」


「……どうして、そこまでやるんですか? 君にはまだ、私と違って未来があるのに――」


 この質問は卑怯だっただろうか。でも、それを訊かずにはいられなかった。


「……化野は僕のことを理解してくれただろ。僕も、化野のことを理解したかった。いや、ちょっと語弊があるな。理解者になりたかったんだ。観測するだけじゃない、隣にいて――、星座になれるようなそんな存在に、なりたかったんだと思う」


「私のことなんて……、気にしなくていいのに――」


 生き生きとしながら語る『君』を見て、私は顔を歪めた。

 私と出会わなければ。あの時、私が声を掛けなければ、私が願わなければ。

 『君』が苦しむことはなかった。


「……ごめん、なさい。私のせいで、白鳥くんは――」


「僕は満足だよ。生きた証さえ残せれば、それで良かった。その答えが見つかったんだからさ。だから、そんな顔するなよ」


「……無理、ですよ。……そんなの」


 私は自分の身勝手で死んでしまった。そして、今度は私のように身勝手に死のうとしている『君』を見届けている。

 自分が彼の世界を変えてしまった。あれほどこの世に関わることを望んでいたのに。

 そのことが申し訳なくて、――それから、こんな私を想ってくれている『君』の願いが嬉しくて。

 気がつけば、涙が零れ落ちていた。

 理屈じゃない。自然と感情が、溢れてしまっていた。


「……白鳥くんは、私が死んだ場所を知っていたんですか?」


 でも、泣いている場合じゃない。私にはまだ、やるべきことが残されている。


「ああ。化野のクラスメイトから聞いてさ。一人で天嵐山に来て、その頂上で星を観てる最中に体調を崩したって」


「だから白鳥くんも、ここに?」


「……そう、かもな。ここを選んだのは、もしかしたら化野に会えるかもって、思ってたから。――最後に、会えて良かった」


 そう言って笑う『君』に、私は顔を俯かせる。星が、消えようとしている。この輝きが消える瞬間は誰にも見つけられずに、ひっそりと闇の中に消えてしまうかもしれない。

 それは嫌だ。

 『君』には生きてほしい。

 私がどうとかじゃない。生き続けている限り、星として見つけられる日が、絶対にやってくるんだから。


「最後にはなりませんから……っ!! 絶対に、君を助けます……!!」


「気持ちだけは、受け取っておくよ」


 流れ出る命の潮は止まることなく、彼の顔色が徐々に青ざめていく。

 死なないでください。

 諦めないでください。


「――私の分まで、生きてください……っ」


 消えかけていく光を見つめて祈るように、握る手に力を込める。

 けれど、逆に『君』の力は弱くなっていて。私の鼓動は早く、不安を加速させる。


「白鳥くん……?」


 呼び掛けに、応じる人はいない。目の前にいるはずの『君』からは、何も反応がない。


「……駄目ですよ、白鳥くん。まだ、話さないといけないことが、あるんですから」


 穏やかな表情のまま、眠る『君』。どれだけ呼び掛けても、動かない。


「白鳥くん――」


 返ってくるのは静謐ばかり。静かな世界なんて、望んでいないのに。ただ『君』に元気になってほしかっただけなのに。


「――――――――――――――――――――っっ!!」


 慟哭が、夜空に届く。

 どうか、お願いですから。星としての輝きなんて、なくてもいいから。誰も、私のことなんて覚えていなくてもいいから!!


 ――白鳥くんを、助けてください。


 焦がれた星々に救いを求めて仰ぐけど。

 彼らがそれに応えることは、なかった。

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