第22話
「……一番目立っているあの三つの星がベガ、アルタイル、デネブです。青白いのがベガで、白いのがアルタイルとデネブ。夏の大三角形って呼ばれているものですね」
彼女は細い指先で天をなぞっていく。遠く、遥か虚空を見つめる横顔は嬉しそうで、けれどどこか切なさを感じるのは、気のせいだろうか。
「その右で光っているオレンジ色の星がアルクトゥルス。その下の方にある赤くて綺麗な星がアンタレス、サソリの心臓って呼ばれているみたいですよ」
広がる夜空は瞬きを繰り返し、僕たちに降り注ぐ。化野はそれを楽しそうに受け止めて、その瞳に星々を散りばめて応えている。
その姿が、不安定に見えた。
歪で、滲んで、溶けて混ざる。彼女、化野 幽はそこにいるはずなのに、あの星々と同じように手が届かない存在だと誤認してしまう。
すぐそばに佇む、星を見上げる少女。目いっぱいに輝きの歓待を受け取って、彼女が動く度に薄いベージュの髪が揺れる。
自分の存在も揺らぐ暗闇の中、僕たちは互いの存在を認識し合い、そして同じ星を見上げられる。そう思うことで、彼女の傍にいるのだと自分を納得させていた。
「白鳥くんは、星は好きですか?」
不意に、その切ない顔をこちらに向けられて、胸がなぜか痛んだ。
その理由は不明。
でもきっと、彼女には似合わない表情だと思えたから、無意識に否定したかったんだと思う。
「……好き、って言えるほど見上げることはあんまりないな」
「そうですよね。私も、物心つくまではそうでした」
ふわりと笑みを溢すと、化野は再び星を見る。そこに宿る眼差しは羨望か、あるいは諦観か。僕には、彼女がただそれらを見上げているだけには見えなかった。けれど、具体的に何を想って、どうして痛そうに笑うのか。わからない、わかるはずもなかった。
「知っていますか? 星たちの輝きは今のものじゃなくて、遠い過去に輝いて地球で見えているらしいんです」
「らしいな。さすがに実感はないけど」
「例えば、あのデネブは一四〇〇光年離れているので、今私たちが見ている光は一四〇〇年前のものらしいです。壮大すぎますよね!!」
「……それは、知らなかったな」
夜空で存在感を放つ星は、呼吸するように発光を繰り返している。そんなにも長生きで全てを見てきたはずの星は、沈黙を破らない。
隣で息を吸う音が耳打ちをした。やがて、空気は吐き出されて、化野が星に向けて言葉を投げる。
「……それから、もうなくなっているかもしれない星もいるんですよね。私たちが見ているのは過去の光で。その間になくなっても、気付くのは何年も先のお話になっちゃいます」
「そう、かもな」
僕はただ、柵に手を置いて上向く化野の横顔を眺める。ぽつりぽつりと、紡がれる彼女の声が心地良くて、聞き入ってしまう。
星群を率いる指揮者のように、いまここでは彼女を中心にそれらが鎮座していた。
「羨ましいなって、そう思いました。どれだけ生きても、光れない。どんなに願っても、皆みたいになれない。星のように、明るかったら、良かったのになって。光を、残せるぐらいに」
少し、その手に力が入ったように、見えた。彼女の想いが、周囲に満ちる。静かな天頂に風が吹き木々の囁きを送ってくる。
ここで、何か気の利かせた言葉を掛けることができたなら、彼女も喜ぶだろう。そんなことない、化野は輝いている。そんな声を掛けられればどれほど良かったか。
けれど、僕にはそんな資格はない。思い浮かんでも、言葉にはしない。
何よりも先に、思ったことが自然と口に出てしまっていたから。
「僕は、化野が羨ましいよ」
「え……」
振り向いた化野の双眸は、丸く見開いている。先ほどまで星を纏っていた瞳は潤んで、僕には眩しく映った。
「どうして……」
「化野には、ちゃんと自分があるだろ? こう生きたい、こうなりたいっていうのがさ。でも、僕はそんな考えもなくて、宙ぶらりんのまま過ごしてる」
「でも、白鳥くんも小説を書いていて、しっかりと自分の意志があるように見えますよ?」
「……それは、確かに僕の意志なんだけど――」
厳密に言えば違う。小説は書きたくて書いているし、後悔したことなんて一度もない。今後も僕は、この道を通って生きていくつもりだ。
けれど、それは手段でしかなくて。
僕にとっての目標は、ぼやけたままだ。
「どうして、小説を書いているのか、わからないんだよ。考えれば考えるほど迷って、答えも出せなくてさ。書いたものが認められない中、藻掻いて足掻いてる」
どれだけ時間を費やして、思考を増やしても何故自分がそれを書いているのか、わからなくなる。目標はあるけど、その理由は明確にはなっていなかった。
対して化野は、星のように輝きたいという想いを口にした。口にできるほどの、意志があった。
その軌跡を、残したいという願いの元に。
「きっとこのまま、誰からも見つけられずに、埋もれていくんだなって思うと、苦しくなって……、多分、怖いんだろうな」
「白鳥くん……」
心配そうな声が、夜の夏に消え入る。気を遣わせてしまっただろうか。けれど、後ろめたさはない。真っ暗な空間がそうさせたのか、思いのほか感情は落ち着いている。
「……私、昔から体が弱くて」
耳に入ってくるのは、囁くように小さな声。ただ、ちゃんと聞き取れる。目の前にいるから当然なんだけど、澄んだ声音は静まった空気に馴染んで、不思議と響く。
「病院と家での生活を繰り返していたんです。そのせいで、友達も少なくて。……だから、よく星を見ていたんです。綺麗だな、羨ましいなって」
彼女が僕を見る。優しく彩られる瞳は、先ほどまで星を見ていた時のよう。
羨ましそうにしていて、その上で辛そうだ。
「人は、この星たちと同じだと、思います。ただ当たり前にそこにいて、たくさんいる中で頑張って輝いて、たまに近くにいる星たちと手を取り合って。そうして、散らばっているんです。……私も、その中にいたかったんです。ただ、見つけてほしくて、皆に憶えていてほしくて。……でも、叶いませんでした」
そうか。彼女が表情をころころと変えるのも、溌剌としている時があるのも、全部存在を発露させたかったから。健気にひたむきに、付き合ってくれているのも全部、忘れられたくないから。
僕は、その彼女の笑顔の理由を知って、胸が苦しく痛んだ。
そんな僕の姿に、彼女はわざとらしく、笑ってくれた。友達に向ける時のような、無垢なそれ。
僕は、月下に浮かぶその表情を忘れないだろう。
「……私も白鳥くんと同じです。見つけてもらえないことが怖くて、忘れられることが何よりも辛くて。だから――」
爽やかな風が、撫でた。揺らめく彼女の存在が、余計にぼやけて見えてしまう。
「――ずっと、生きていたという証が、ほしかったんです」
「――――――――」
天の川が広がる空の下、聖者のように穏やかな表情で佇む化野が、風になびかれる。
吹けば消えてしまいそうな灯火。星の光よりも強く輝く存在。ちぐはぐな光景は、僕の脳にしっかりと焼き付いて。
そしてその言葉は、彷徨っていた僕に手を差し伸べてくれた。
「……そう、そうか。そうだな」
誰かから認められるということは、存在を許されるということ。世界に光る、星の一つとして、そこでようやくカウントされる。それがなければ、この黒い天幕に埋没して、誰からも発見されることなく人知れず消えてしまう。
僕が、存在を主張する方法。それが小説を書くというものだった。
そうして小説を書いたその先にあるもの。誰にだって理由はあって、全ての理由に貴賤はない。でも僕は承認欲求とか、名誉や栄誉とか、そういうものが欲しいんじゃない。
小説を通して僕は、僕がこの世に存在していたという証が、欲しかったんだ。
「……僕と化野は、似てるのかもな」
化野を認識できるのがどうして僕なのか、と。ずっと疑問を抱いてきた。僕じゃなきゃダメな理由なんてないと思っていた。化野と僕との間に接点はなくて、考え方も少し違う。生きて出会えていたら、よほどのきっかけがない限りは話すこともなかったとも思う。
でも、幽霊になった彼女を観測できるようになったのは、間違いなく僕で、他には誰もいなくて。
蓋を開けてみれば、想いは同じだった。
それだけの理由で視えるようになったとは思わない。けれどきっかけにはなったんだと思う。
「……白鳥くんが嬉しそうで、役に立てたみたいで、良かったです」
気がつけば、僕は笑っていた。心に蔓延っていた暗雲は消えていて、ぐっすりと眠った後のように、意識も明瞭で自分自身を知覚できる。
もう迷いはない。力が漲るのがわかる。自信と覚悟が溢れて巡り、ぼやけていた視界がクリアに直った。
「……化野のおかげだよ。――ありがとうな」
感謝してもしきれない。僕は、他人に活かされてばかりだ。この感謝の言葉ですら、並べたところで物足りない。
化野は、慎ましやかに笑顔を見せて、はっきりとした声を震わせる。
「それは、私のセリフですよ。……私も、楽しかったです。――本当に、ありがとうございました」
星が並ぶ夏の夜空。ぬるま湯に浸っているような覚束ない感覚が、意識と体を拭い余計に空気へと溶けていく。
その景色を忘れないだろう。
このやり取りを覚え続けるだろう。
空に浮かぶ星々の数だって鮮明に記憶される。
化野の笑顔、所作、声、存在そのものを、いつまでも留めておこうと、そう思えた。
それが僕にできる、最大限のお礼だろうから。
けれど、そんな想いは叶わない。
その翌日からだった。
化野の姿が、観測できなくなったのは。
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