第20話
花火の打ち上げが終わると、用事を終えたように訪れていた人々が帰り支度を始める。まだまだ遊び足りない人は屋台巡りを続けるようだったけど、ほとんどの人間が帰路に就いていく。
当然、学生である僕たちもその例には漏れず、帰宅していく観客の群れに紛れながら、坂月先輩の家まで向かう。
先輩の家はこの辺りでは階層数の多いマンションで、オートロックの自動ドアの前で僕は見送ることにした。
「今日は、付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそですよ。一緒に色々回れて楽しかったです」
「それは、私のセリフだよ」
玄関ホールが照らす灯りを背に、先輩が優しく笑った。せっかくの祭りに、僕なんかでいいのだろうかと思ってしまうけど、言葉だけでもそう言ってくれると安心する。
二人の間に流れる空気は、生温く決して爽やかなものではない。長居するには向いていない環境であるはずだ。
なのに、僕も先輩もどちらとも何も言わずに、ただ見つめ合う。
「……キミが、元気になってくれて良かった」
「え?」
先輩の落ち着いた声が、その場に染み渡った。どこからか静かに鳴く虫の声が飛んできて、僅かな静寂を埋める。
「この前、落選を知らされた時、キミは随分と思い詰めた表情をしていたからね。今ではだいぶ、マシになっているよ」
「……そう、だったんですね」
普段まじまじと鏡を見ないものだから、そこまでとは思っていなかった。ただ、精神的に追い詰められていたのは間違いない。
それは自分自身でもわかっていたし、化野からも似たようなことを言われたから。
だけど、坂月先輩からも言われてしまうとなると、きちんと反省しなければならない。結局、僕は先輩には気を遣わせっぱなしだ。
「ありがとうございます。心配かけました」
「うん。全快とは程遠いけど、いつもらしいキミに戻ってくれて何よりだ」
先輩はそう言ってはにかんだ。僕もそれに、申し訳なさそうに笑った。暖かい雰囲気が満ちる。
「それじゃあ、白鳥。気を付けて帰るんだよ」
「先輩も、ゆっくり休んでください」
「ああ。また、部室で会おう」
そうして、先輩はマンションの中に消えていった。僕はそれを姿が見えなくなるまで見届けた後、踵を返す。
夏の夜は、快適とは程遠い。虫は飛んでいるし、気温も涼しいわけではない。湿度を帯びた緩い熱気がじんわりと汗を誘引させる。
けれどそれ以上に、心に清涼感が吹いていた。
すっかりと活気という名の灯が落ちた住宅街には不気味なほどの静けさが育まれていて、先ほどの祭りの雰囲気はどこへやら、物音ひとつしない。
その中を、ただ一人闊歩していく。風も吹かず、静寂が耳を欹てる。なんでもない夏夜の町。昨日とも明日とも、きっと同じ日はやってくるし同じことができるはずだ。
それでも、その日は特別なようで、体を撫でる夏の機微全てがはっきりと感じ取れる。
夜の匂い。アスファルトを踏む音。落ち着いた空気が肌に触れ、息を吸うと体内までそれらくっきりとした世界に染まる気がした。
そして、胸の奥は陽だまりに眠るように暖かい。心を動かす原動力として、その熱量が全身を巡り僕を刺激する。
機嫌が良い、ということはない。ただ気分が高揚していることには間違いはなかった。
いくつかの信号を渡り、いくつかの角を曲がる。さすがに全くの無人ではなく、幾人かの通行人とすれ違っていく。
そうして非日常への感傷も薄れてきた頃、通りがかった公園に見覚えのある人影を映した。
白く光を落とす外灯に曝されるのは見慣れた後姿。ベンチに座って上を見上げている様子の彼女へと近寄って、声を掛ける。
「こんなところで何してるんだ?」
「白鳥くん!? え、先輩と夏祭りに行ってたんじゃ……」
「花火を見終えたから解散したよ。そんなに驚くこと?」
「いえ、だって……」
ベンチに腰掛けたまま、化野は目を白黒させている。必要以上に驚いているようだけど、そんなにおかしい状況だろうか。
「え、えと……、何もなかったんですか?」
「何って……、なに?」
的を射ない質問に、意図が読み取れず疑問で返してしまう。しばらく僕の瞳を覗き込んでいた化野だったけど、やがてがっくりと肩を落として溜息まで吐いた。
「白鳥くんがそんな人だったなんて、思いませんでした……」
「え、僕何かした?」
「何もしていないから呆れてるんですよ」
「……?」
困惑したり落胆したり、いつも以上に感情の落差が激しい化野に、僕は首を捻ることしかできない。僕もまた困惑していると、彼女は勢いよく立ち上がる。
「まあ、私から何か言うのは失礼なので、これ以上は何も言えないんですけど」
そう言うと、くるりと回ってスカートを翻した。そのあどけない顔には、困り眉の笑みが乗っていて、それを見た僕はほんの少しだけ罪悪感から解放される。
「だからこの話はお終いです。すみません、いじわる言っちゃって」
「……いや、多分悪いのは僕だから。なんで失望させたか、ちゃんと受け止めることにするよ」
「……そうしてあげてください」
僅かに瞼を下げた柔らかな瞳が送られて、彼女はそれを空へと向かわせる。僕も同じようにしてみると、雲一つない暗幕が広がっていた。
「……さっきは、空を眺めてたのか?」
「見てたんですか?」
予想もしていなかったかのように、化野は声を上げてこちらへと振り返った。見てたも何も、彼女はずっとそうしていたわけだし、その行為は何も疚しいことなんかじゃない。
彼女のその慌てた姿が微笑ましくて、僕は小さく笑って返す。
「そんなに取り乱さなくても、別に悪いことじゃないんだし」
「……見られてたなんて、恥ずかしいです」
不服そうな気まずそうな、化野は苦い顔をしてみせた。まあ一人だと思っていたところに知り合いが来れば、多少は気まずいという気持ちはわかる気がする。僕はそれ以上そのことについて追及しないつもりだったけど、彼女は何やら難しい表情でこちらを見つめていた。
「……白鳥くん。元気になりましたね」
「化野もそう思うのか?」
「……はい。初めましての時よりも、君の表情は明るくなったような気がします」
無邪気に、儚く笑う化野に、僕はどう返していいのかわからず手持ち無沙汰に左手で髪を弄る。
精神が回復したという感覚はない。それでもあの時、校舎をがむしゃらに駆けていた時に感じていた目まぐるしい黒い感情は今は溶けて見えない。焦燥感や敗北感、悔しさや胸にこみ上げる吐き気は薄まって、僕の奥底に眠っている。
そうなったのは何故だろう。それは深く考えるまでもなく、目の前にいる彼女のおかげだと言えた。
きっと一人で過ごしていたら、モヤモヤと曇天のような心模様のまま時間を無為に過ごしていたはずだ。
化野と、出会えたから――
「あの、白鳥くん」
「なんだ?」
「今日この後、少しお時間ありますか?」
いつも、というほどの付き合いではないけど、彼女が何かに誘ってくれる時は少し申し訳なさそうな様子を見せる。それが化野の性格であり、人となり。自分の都合で相手の時間を奪ってしまうということに引け目を感じているのかもしれなかった。
けれど、今目の前に映る幽霊は。
白く照らす電灯の下、洗われるような汚れ一つない肌をさらに白く映して、微笑んでいた。らしくない、といえばらしくない。でもそれを指摘できるような間柄でもないし、何より。
瞬きをすれば目の前からいなくなってしまうのではないか。そんな脆さと危うさが混じり合い、物悲しげな双眸から目を離せずに、ただ頷くことしかできなかった。
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