第18話

 その翌日は、文芸部へと訪れていた。化野がやりたいことがあったから来たわけではなく、僕自身の用事のためだ。

 だから、化野には来ても何もない旨を伝えたけど――


「白鳥くんがどんな部活に入ってるのか見てみたいです!! 前から気になってましたし!!」


 と、本人たっての強い希望で僕と化野は今、文芸部の扉の前に立っていた。夏休みの校内は外の暑さを感じさせず、静かでどこか冷めていて、そこがいつもの学校であることを忘れてしまう。

 けれどそこはいつも通りの学校。無機質なリノリウムの廊下や壁に張られた掲示物には忘れ物の報せや近所で催される祭りの告知などが貼られている。

 外からは他の部活動の掛け声やら、吹奏楽部の楽器の音色やらが届いていて、完全に静寂が下りているというわけではなかったけど、それがまた校内の静けさを際立たせていた。


「ここが白鳥くんの所属する文芸部なんですね」


「そう。言っとくけど、部長の坂月先輩は幽霊が苦手だから、今日はあんまり化野とコミュニケーション取れないよ」


「はい!! お二人の邪魔をしないようにしますね!!」


 僕の意図が伝わったのかどうか微妙な返答に苦笑して、僕は文芸部の扉を開く。そこには部屋の最奥で、いつものように座る坂月先輩が黙々とペンを走らせていた。


「お、来たね白鳥。お礼をしたいなんて、殊勝な心掛けじゃないか」


「いえ、勉強を教えて貰ったんですから、これぐらいのことはしないと」


 言いながら部屋へと足を踏み入れる。

 そう、今日この文芸部へと訪れたのは、他でもない。先日の期末テストで坂月先輩から勉強を教えてもらい、大変お世話になったのでそのお礼をしに来たのだ。

 そのおかげで補習を受けずに済んだのだから、神様仏様坂月先輩となるのも道理で、僕は手提げ袋から小ぶりな箱を取り出し、机の上に置いた。


「駅前の洋菓子店のケーキです。チーズケーキにしましたけど、好きでしたよね」


「よく憶えていてくれたね、嬉しいよ。それじゃあ、お茶でも出そうかな。キミは座っていてくれ」


「いえ、僕がやりますよ」


「そうかい? それじゃあ、お言葉に甘えようかな」


 立ち上がりかけた坂月先輩を制して、壁際にある棚から小皿とマグカップを二つずつ取り出す。

 文芸部に訪れる人は少ない。いつも顔を合わせるのは、僕と坂月先輩ぐらいなもので、来客の予定もまるでない。自分たち用の食器類や調度品を持ち運んで、最早そこは三年も通っている坂月先輩の私室とも呼べた。

 インスタントの紅茶のパックを二つ――、坂月先輩の分はレモンティーにして、ポットからマグカップへとお湯を注ぐ。


「はい、坂月先輩」


「ありがとう、白鳥」


 小さく微笑みながら湯気の立つそれを受け取り、彼女はケーキの入った箱を開いた。僕もそれを覗き込むと、宝石のように輝く洋菓子が姿を現す。


「ちょうど糖分が欲しかったところだったんだ。ナイスタイミングだよ」


「お気に召したようで何よりです」


「うん。キミがくれるものなら、何だって嬉しいよ。……素敵な贈り物も貰ったし、少しブレイクしようか」


 そうして僕と坂月先輩は定位置に座り、ケーキと紅茶を楽しむ。その間、化野は何をしているかと言えば、適当な席に座り、ニコニコと笑いながら僕たちの光景を眺めているようだった。

 ここに彼女の求めるモノはないとは思うけど、楽しそうにしているなら良かった。


「それにしても、テストが上手くいったようで良かったよ」


「本当に坂月先輩のおかげです。助かりました」


「礼には及ばないよ。人に教えるのは自分自身への復習にもなるからね。決して無駄なことじゃないんだ。私もほら、一応受験生だから」


 そう言って、マグカップに口をつけて喉を潤す。三年生である坂月先輩は今年いっぱいで部を卒業する。秋の文化祭が終われば、もうここへは来なくなるだろう。ずっとこの関係が続いていくような、そんな安心感があったからか、それを思い出すと現実に揺り戻されてしまう。


「すみません、勉強の邪魔をしましたよね」


 彼女が座る周りを見ると、一時的に片づけられているものの受験勉強の後が見て取れる。わざわざ集中するために文芸部に来たのに、僕が来てしまうと効率が下がってしまうだろう。


「ああ、いやいや。本当に気にしないでほしくてね。勉強はいつだってできるけど、キミとお喋りする時間は、限られているから。私からすれば、寧ろそっちの方が大事かな」


「そうですか? それなら良いんですけど……」


 またも先輩に気を遣わせてしまったか、と内心で反省する。坂月先輩は優しいから、僕が傷つかないように振る舞ってくれる。それにいつも甘えてしまっていて、申し訳ない気持ちに苛まれるところまでが最早ルーティンだ。

 本当はそれがよくないと思いながらも、彼女の配慮を抑え込んでまで退けるのもまた失礼な気がして、結局流されることが多い。


「そういえば」


 坂月先輩は行儀よくチーズケーキを口へと運んで、しっかりと味わった後にそう切り出した。


「キミが小説を書く理由について、何か見つかったかな?」


「あ~……、それがまだ……」


 それを聞かれてドキリとしたけど、初めて尋ねられた時よりは胸を占める苦しみは和らいでいる気がする。時間が解決してくれたのか、あるいはここ最近はそれについて考えることが少なかったからか。改めてそのことについて考えるだけの余裕は、確かにあった。


「ゆっくりでいいよ。これを、キミを縛る鎖にするつもりもないんだから」


 温かい言葉が空間に満ちる。返す言葉も浮かばないまま、ただ僕は手持ち無沙汰にケーキを口に運んだ。

 確かに先輩のそれには何の拘束力もない。僕が隠れて小説を書くことだってできるし、適当な理由を拵えればバレることもないだろう。でも、それをしようと思わない。考慮にすら入らない。

 そうしてしまうことに、何の意味もないことがわかっているから。


「すぐじゃなくてもいい。小説を書くことから離れることを勧めたけど、何なら、書きながら考えたって構わない。でも、自分の原動力を知るというのは大切なことだから、今後の人生でだって、きっと役に立つはずだ。……キミからいつか、小説を書く理由を聞けるのを楽しみにしているよ」


「……ありがとう、ございます」


 その甘さを、口の中に残る洋菓子のせいにしたくなる。それほどに、僕に対して優しい先輩に感謝を述べるだけでは物足りないけど、できることなんて何もない。


「……良い、先輩ですね」


 そっと、すれ違いざまに吹く風のように、静かな声が部屋に響く。

 それは、坂月先輩には届かない声。僕にしか、聞こえない言の葉。ちらりと、化野の方を見ると、彼女もまた柔らかい表情を浮かべて、僕を見ていた。


「……隣を見て、どうかしたのか?」


「あ、いや……」


 と、そこで自分の過ちに気がつく。ついいつものように化野に視線を向けてしまった。それから、即座に否定できなかったのもまずかった。言い淀んだ僕を見て、坂月先輩が思考する猶予を与えてしまっていた。


「白鳥……、まさかとは思うけど……」


 僕が動揺する中、坂月先輩もまたその小さな顔をみるみるうちに青ざめさせていく。


「いまここに、件の幽霊がいるんじゃ……」


「……ええと」


 坂月先輩は幽霊が苦手だと、化野に注意しておきながらこのざまだ。返答に窮してしまっていると、それを肯定と捉えた先輩がますます脅え始める。


「やっぱり……!! 白鳥、早くここから出よう!! 呪われてしまうかもしれない!!」


「いや、あの、呪われるとか、そういうのは多分大丈夫だと思います……!!」


「ど、どうしてそんなこと言えるんだい……? まさか、キミは既に呪われてしまっているんじゃ……」


「全然そんなんじゃありませんから、落ち着いてください。えっと、信じてほしいんですけど、ここにいる人は先輩が想像するような幽霊じゃありません」


「いや、幽霊にそんな違いもないと思うんだが……」


 取り乱し、視線を泳がせる先輩。こうなってしまったら、もうどうにでもなってしまえと、全てを伝えることにする。


「ここにいる幽霊は、化野 幽って子で、当時この高校の一年生だった女子生徒なんです。呪いとか関係なさそうな、良い子ですよ」


「え……?」


 と、そこで坂月先輩の動きが止まった。僕と、それから僕が先ほど視線を向けた方向、化野が座っている場所を交互に見つめている。

 信じたのだろうか。いや、というよりは呆然としているようにも見える。僕が不安に駆られていると、何度かの瞬きの後、先輩が声を震わせた。


「……白鳥。つかぬ事を聞くけど、そこに座っているのはどんな子かな?」


「え? えっと、普通の女の子というか、髪型は薄いベージュで肩ぐらいまで伸びてて、僕たちと変わらない学校指定の制服を着てます」


「……キミたち、もしかしてここしばらくずっと一緒にいたのかな?」


「ええと、さすがにずっと一緒ってわけじゃないですけど。ここ何日間かは……」


「そう、そうか……」


 彼女との活動を伝えてはいなかったけど、幽霊が苦手な先輩のことだから幽霊と一緒に過ごすなんてと、非難されるかもしれない。思わず身構えてしまう僕に浴びせられたのは、しかし思っていたモノと全く異なる言葉だった。


「――白鳥、その、良ければなんだけどね」


 先ほどまで幽霊に脅えて小さく震えていた坂月先輩の姿は、そこにはなかった。

 代わりに見せるのは、珍しく不機嫌を露わにしたような、けれどどこかたどたどしい様子で。

 吐いて、息を吸って、緊張した面持ちがこちらにも伝わってくる雰囲気の中、紡がれたのは意外な誘いだった。


「……明日、一緒に祭りに行ってくれないだろうか」


「……へ?」


 対する僕はと言えばそんな気の抜けた返答をしてしまって、けれどすぐに二つ返事でそれに応えたのだった。

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