第17話

 次の日は海へと向かった。

 朝からの移動で、電車を乗り継ぐこと約三時間ほど。青い空を映したような海と入道雲と同じ色の砂浜が僕たちを出迎えてくれた。


「うわあ、夏って感じですね」

「だな」


 侘び寂びも語彙力も何もない感想を述べる化野に、僕も同調する。つらつらと情景を並べ立てるのもいいと思うけど、今はただ形容された夏を受け入れるだけで精一杯だ。

 逸る気持ちを抑えながら、それでも海に着くまでに並ぶ屋台へと目まぐるしく興味を示す化野を見て、思わず笑ってしまう。


「……何かありましたか?」

「いや、何も。……楽しそうだなって」

「それは、そうですよ。もう、こうやって誰かと海に来られることなんてないって思ってましたから」


 くるりとその身を翻して、白い砂浜が眩しい海へと視線を移す。夏休みも始まったばかりなはずだけど訪れている人は多く、砂浜で遊んだり海で浮かんだりしている姿が夏らしさを助長させている。


「これぐらいなら、いつでも付き合うよ」

「ふふ、ありがとうございます!!」


 彼女が一歩踏み出すと、僕もつられて砂浜へと降り立つ。しゃり、という小気味よい音色が伝わってきて、歩くだけでも退屈しない。

波打ち際まで来ると、寄せて返すさざ波が海の呼吸のように潮騒を生み出して、砂浜に絶えず跡を残して帰っていく。しばらくその音色を楽しみながら海岸線を歩いていると、やがてそれらと混ざり合うように聞き慣れた声音が届いた。


「白鳥くんは、海にはよく来るんですか?」


 からりと乾いた潮風が鼻をくすぐる。遊泳客の喧騒は雄大な海の彼方へと吸い込まれていっているのか、あまり気にならず、化野のその声がやけに耳に残る。


「全然来ないな。最後に行ったのもいつだっけってレベルだし。……そういう化野はどうなんだ?」

「私もたまに来るぐらいですね。お母さんとお父さん、それと妹と一緒に。懐かしいなあ」


 彼女は空を見上げながら、そう呟いた。後ろを追いかける僕からでは、その表情は窺えない。見えない方が、きっと良かった。


「妹さんがいるんだな」

「はい。私が死んだ時が妹は六歳だったので、今は十四歳。あと一年で、追いつかれちゃいますね。……時が経つのは早いなあ」


 声だけで、彼女はいつもみたいに眉尻を下げて笑っているのだとわかる。化野の揺れる後ろ髪を見ながら、ふと立ち止まって海に崩れる波間を眺めた。

 僕は、何も知らない。

 家族構成も、死んだ年月も。過去に生きていた化野のことを、何一つとしてわかっていない。それは意図的にそうしていることで、いつまでもこのままだといけないという気持ちはある。

 興味がないわけではない。寧ろ、彼女がこの世に留まっている理由の手がかりにもなるはずだ。

 それでも。

 僕から彼女の過去について訊くつもりはなかった。彼女のことを知れば知るほど、彼女は遠ざかる。


「どうかしましたか?」


 前を歩く彼女は立ち止まり、こちらにその視線を向ける。夏の海に負けない輝きを放つ瞳は、それでいて柔らかく儚い。木漏れ日を想起させる、優しい笑顔は爽やかな風が吹くこの夏の頃にぴったりで、眩しい。


「なんでもないよ」


 だから僕はそれに対抗するように、精一杯の笑顔を返してそう言った。

 照りつける太陽が降り注ぐ中、半袖の制服から覗かせる手足がより白く映り、今にも彼女がその烈日に溶けてしまうのではないかと思えてしまう。

 当然、そんなことはなくて、化野はまた一つ揺蕩う綿毛のような笑顔を浮かべてこれに応じた。


「歩き疲れたら言ってくださいね」

「ああ、ありがとう」


 またも波打ち際を歩き始める。周囲には人も多く、それがしばらく途切れることはなさそうで賑々しい。そんな中を海に入るわけでもなく、砂浜で黄昏れるわけでもない。ただ歩いていくだけというのは新鮮で、そして一人では決してしようとも思えない行為なだけに、特別な一瞬を過ごしていると錯覚してしまう。

 まるで青春な一幕のそれらを、けれど観測している人はいなかった。僕と化野、二人だけの空間なようでその実、そこにいるのは僕だけだ。

 その空間、その時間はきっと特別なはずで、大切にしなければならないはずで。

 ただ時折、未だに彼女がそこにいないという事実を忘れてしまう。


「あ、そうだ」


 化野が不安そうな表情で振り返り、僕と視線を合わせた。その度に、彼女の髪が揺れて、彼女の感情を模しているかのようだと感じる。


「日焼け止めとか、塗らなくても大丈夫ですか!? これだけ陽射しが強いので、塗っておいた方がいいですよ!!」

「なんだ、そんなことか。心配そうな顔するから何事かと思ったよ」

「そんなことじゃないですって。日焼けすると大変なんですから!!」

「心配してくれてありがとうな。でも、ちゃんと日焼け止め塗って来てるから大丈夫だよ」


 初夏から秋口にかけて、日焼け止めは欠かさず塗るようにしている。それを聞いて安心したのか、息を吐き出した化野は疲れたように笑う。


「良かったです。私の妹、前に日焼け止め塗ってなくて大変だったんですよ。お風呂に入る時とか泣き叫んじゃって……」

「日焼けすると沁みるからな。皮もめくれるし」

「そうなんですよ!! その時も大変で――」


 それからの間、僕は化野の家族との思い出について耳を傾けながら歩いていった。

 喋る彼女は溌剌としていて楽しそうで。

 僕もまた、幸せそうな化野を見て頬を緩ませる。

 そうして気がつけば陽は傾いていて、周囲から人気がぞろぞろと消え始める。

 海は絶えず活動を繰り返し、その存在を片時も忘れさせない。陽射しの強さが移り、雄大な水平線の顔色もそれに合わせて濃い橙色に染まっていく。


「そろそろ帰りましょうか!!」


 空間に馴染む夕暮れの始まりを受けて、彼女の笑顔が咲き誇る。

 僕はその絵画のような景色を呆然と眺めてからようやく、頷くのだった。

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