第12話

 これから出かける用事があるからと、そう謝る住職と別れた僕たちはお寺を後にして夏の日差しの下へと戻って来ていた。

 陽は少し傾いたとはいえ、まだまだ容赦のない日光が降り注ぐ中、赤信号で立ち止まる。


「結局、未練とかについてわからなかったですね」

「そうだな。解決するとは思ってなかったけど、一ミリも進展なしなんて思わなかった」


 いや、進展らしい進展はあった。僕と化野が出会ったことそのものが鍵を握っているらしい。とは言え、その意味もよくわからないのでほとんどスタート地点から動いていないに等しい。


「でもちょっとだけ手がかりは掴めましたね。白鳥くんにも関わることらしいですけど、何なんでしょう?」

「それがわかれば苦労しないんだけどな」


 なにせ僕と化野に関係性は皆無だ。一緒に過ごした日数と言えば片手で数えられるほどで、時間もそれほど長くはない。

 元々知り合いだったというわけでもないし、学年も性別も性格だって違う。何故僕が彼女のことを認識できるようになったのか、その理由や意味は考えれば考えるほどぼやけて見えなくなる。

 もっと適任がいたはずだ。彼女に相応しい人間は、きっと無数にいる。少なくとも僕はそぐわないだろう。


「……何考えてるか当ててみましょうか?」

「え……?」


 目の前を一台の車が通り過ぎていき、車道の信号が黄色から赤へと変わる。


「――なんで、僕なんだろう。もっと相応しい人がいるはずだ」


 歩行者用信号機が緑色に切り替わる。彼女は動けない僕の横を抜けて、横断歩道へと躍り出て、振り返る。


「なんで……」


 何故僕の考えがバレたのか。最後まで言葉を絞り出せず、地面の白い鍵盤を踏んでいく彼女を眺めた。


「なんとなく、です。私ならそう思いますから」


 しばらく、彼女がウサギのように跳ねていく様を見つめることしかできず、気がつけば化野は横断歩道を渡りきっていた。

 軽やかに歩を進める度に揺れる、髪とスカートを呆然と眺めていた僕は、信号機が点滅を始めてようやく我に返って彼女を追いかける。


「大丈夫ですか? ぼうっとしてましたけど……。もしかして熱中症!?」


 意外と赤信号への切り替わり時間は長く、急ぐ必要はなかったと思う中、出迎えてくれた彼女の声は不安と心配を混ぜたものだった。

 それに対して僕は一瞬で荒れた息を整えながら、首を横に振る。


「大丈夫。意識もしっかりしてるし、水分も十分取ってるよ」


 ショルダーバッグからペットボトルを取り出して、飲んでみせる。もちろん、飲み口には触れていない。特に意識しているわけじゃないけど、ついそうしてしまっていた。


「良かったです。でも、辛かったら早めに教えてくださいね!!」

「わかってるって。無理な時はちゃんと言うようにするからさ」


 ペットボトルを再びカバンへしまい込み、歩き始める。とは言っても、先ほどのような目的地へと向かうためのものではない。どこへ行けばいいのか、二人とも見当もつかないままに歩いていると、やがて公園に辿り着いていた。

 セミの声がけたたましいけど、小川の近くに備え付けられたベンチの辺りはまだマシで、木陰にもなっている。

 僕はそこに倒れ込むように座り込んで、化野はふわふわした笑顔を浮かべながらその隣に静かに座った。


「……これから、どうする?」


 水辺の近くだからか、時折吹く清涼な風が肌を伝う汗を撫でてすぎていく。セミの声と、公園の遊具で遊ぶ子どもたちの声を耳にしながら、ぼんやりと空を見上げた。

 今にも落ちてきそうなほど、怖いぐらいの蒼い空。白い雲一つなく、色彩豊かな空模様は、いつまでだって見ていられる。

 うだるような暑さも、たまに感じる爽やかな風も、目に入る深緑も、浮かぶ空色も。

 それら全てが、自分が夏の中に生きているんだと実感させてくれる。

 夏は蒼くて、心の白さを零してしまう。

 僕も、それから彼女も。


「……本当は、何も手がかりがなければ、終わりにしようかなって思ってたんです!!」


 隣を見ると、彼女もまた空を見上げていた。その綺麗で透明度の高い横顔は、瞬きした瞬間には消えてしまいそうで。

 じっと、見つめてしまっていた。


「私の無茶に付き合ってもらうのも心苦しいですし、状況が何も変わらないなら諦めがつく。そう、思っていたんです」


 化野が、幽霊になってからどれくらい経っているのか、僕は知らない。尋ねようとも思わないし、それを聞いても意味がないと思っていた。

 けど、きっと長い期間独りぼっちで、それ故に生きている人と自分との間に壁を築いて、過ごしてきたんだなと、そう予想する。

 彼女の生来の性格もあるんだろう。でもやっぱり、今を漂う日常の中で彼女のそういった配慮は正しいと思えるし、真似できないなと素直に尊敬できた。


「けど、そうじゃなかった。そうはなりませんでした」


 そよ風が優しく撫でて、彼女の髪一本一本を揺らす。隣で見るとより彼女がそこにいることがわかる。

 生きている人間と同じように呼吸をしているし、その瞳が輝いている。


「――白鳥くんと出会えたことが、無駄じゃないってわかりましたから」


 化野が空から視線を戻して、地上へと降りる。あどけない顔立ちで僕の方を見て、彼女はまたも恥ずかしげもなくそんなことを言ってみせた。

 その度にどうしようかと戸惑って、はぐらかすように言葉を並べてしまう。


「無駄だったらどうするんだ?」

「その時は、諦めます」


 困ったように笑う彼女に、僕もまた困ってしまう。なぜなら、続く彼女の声があまりにも綺麗で、響いてしまったから。


「でも、こうして見つけてくれたじゃないですか!!」

「それは……」


 見つけたくて、見つけたわけじゃない。勝手に化野の方からやって来て、それで手を握られただけだ。

 感謝される覚えもないし、特別視されるようなことなんて何もしていない。

 買い被りすぎだ。そこまでの人間じゃないし、僕自身化野と交流しているのも打算的な部分がある。

 なのに、彼女は屈託のない笑いを浮かべて、嬉しそうにこちらを見てくる。


「だから、白鳥くんとの出会いは無駄じゃないって思うんです」

「……偶然だよ」


 化野 幽という人間が何を求めているのかは知らないけど、僕ができることなんて限られてくる。偶々、その時その場にいたのが僕っていうだけの話で、本当はここにいるべき人間は誰でも良かったんじゃないか。

 配役がそう決められただけ。舞台に上げられた一般客程度。軽い気持ちでいたかったから、言い逃れ先を探して、未練がましく無様にも這いずり回る。

 僕と彼女は、無関係。

 そう思えないと、僕は自分自身をより嫌いになってしまう。

 ずっと明るい化野から、目を背けた。


「……どうして、白鳥くんなんだろうって、さっきそんな話をしましたよね」

「……ああ」


 今も、そう思っている。同時に罪悪感や自責の念に潰されてしまいそうになりながら、この場でベンチに腰掛けていた。

 纏わりつく夏の暑さ。それが気怠さとして全身に圧しかかって、僕の思考を責め立てていた。

 その中を、彼女の透き通る声が過ぎていく。


「私だから、白鳥くんだったんじゃないかなって、そう思うんです」

「……ええと? ごめん、よくわからないんだけど」

「すみません。私も、ちょっと上手く言葉にできなくて」


 でも、と。彼女はこの空のように晴れた顔で、優しく告げる。


「偶然なんかじゃ、ない。そう思えた方が、楽しくないですか?」


 例えば化野が物語のヒロインで。

 僕がそのストーリーの主役だったとしたら。

 ここでどう返すのが正解なんだろう。きっとよくできたフィクションなら、爽やかな笑顔を浮かべて彼女の言葉に賛同するんだろうけど。

 生憎、僕はただの観客だ。

 自分には彼女と一緒になって、それを楽しむだけの資格もない。

 化野には申し訳ないけど、僕は首を横に振ることしかできなかった。


「……やっぱり、化野の未練に僕が関係あるなんて、到底思えないよ」


 そもそも出会ったのがついこの間の話で、それまで化野との接点なんてなかった。偶然出会ったと言った方が、まだ納得できる。

 化野が何故、こうまで僕である理由にこだわるのか、わからなかった。


「――なら、私が証明します」


 彼女はベンチから立ち上がり、日向へと踊る。スポットライトを浴びたように、陽光に照らされて、それからその手を僕の元へ伸ばした。


「白鳥くんがここにいる理由。ここにいていい理由を。……だから、少しだけ私のわがままに付き合ってくれませんか?」


 白日に差し出された手は向こう側が見えそうなほどに白く薄くて、指一本に至るまで大理石の彫刻のような美しさを内包している。

 僕が、ただの一般人がそれに触れるのは、彼女の神聖を汚す気がして。

 行動ではなくて、言葉で返した。


「僕なんかでいいのか?」

「白鳥くんにしか、視えてませんよ」


 当然だと、そう言わんばかりに楽しそうな顔を浮かべながら、彼女は夏の中に佇む。

 風がそよぎ、僅かに届いた草いきれが鼻孔をくすぐった。

 登場人物はたった二人。けれどきっと他の人がこの光景を見たら、僕がただベンチで休憩しているだけに映るはずだ。そこに不自然はなくて、日常の背景でしかない。

 その風景にすら入れない人がいるとしたら。

 ずっと一人孤独で、誰からも観測されない存在が目の前にいるとしたら。

 そう、僕にしか視えていない。僕が目を瞑ってしまうと、化野はまた取り残される。

 誰にも見向きもされず、世界に見放されて孤立する。

 それがどれだけやるせなくて、どれだけつまらなくて。

 どれほど、寂しいのか。

 知っているつもりだった。僕はそれがイヤで、逃げていたのだから。


「わかった、付き合うよ」


 差し出された手を掴もうとする。

 木陰から光注ぐ世界に触れて、指先から熱を思い出していく。

 そうして握った彼女の手は小さくて繊細で、けれど確かにそこにいることを証明させてくれた。

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