第7話

 そんなことがあったからか、少しだけ坂月先輩と話すのが気まずく感じてしまう。余程、部室に向かう足取りが鉛のように重かったわけだけど、今学期最後の部活動になるわけだし、顔を出さないわけにはいかない。

 それに先輩は昨日の別れ際、また明日部室で、と。そう約束をした。ここで気まずいから行かないという選択肢を取れるほど、まだ僕は社会性を捨てていない。


「……」


 それでも、気まずいモノは気まずくて。

 部屋に入った時の挨拶を済ませたきり、僕と先輩との間に盛り上がるほどの会話は流れない。

 無機質な冷房の音が空間を支配する。時折響くのは、それぞれが読んでいる本を捲る音ぐらい。


 どれぐらい時間が経っただろう。時計を見ても、前回時間を確認した時よりも数分しか進んでいないことに絶望して、また手元の本へと視線を戻す。

 何度か、その往復を繰り返した頃、先輩が読んでいた本を閉じた。読み終えて次の本でも取りに行くのだろうか、と。そう思って坂月先輩に視線を向けると、ちょうど目が合ってしまった。

 いや、たまたま目と目が合ったわけじゃない。先輩はじっと僕の方を見て、話すタイミングを窺っていたようだった。


「白鳥。何か不安なことでもあるのかな? 私で良ければ、力になるよ」


 夕焼けを背に映る先輩のその表情は、口調の割には少し弱々しく見えて、けれど逆光のせいではっきりとした顔つきは見て取れない。

 その光景と、その言葉に釘付けになって、僕は上手く言葉を返せなかった。


「どこか上の空、というか。悩んでいるとはちょっと違うような、落ち着きのなさが気になってしまってね」

「……そんなにわかりやすいですかね」


 そっと、先輩から視線を外しながら、苦笑いをしてみせる。自分でもその取り繕いは嘘くさいと感じてしまえたけど、そうすることしか今の僕にはできなかった。

 この心の不安定さが先輩由来のものであることを、どうにか隠す必要がある。

 まさか、先輩のことを考えていて落ち着きませんでしたなんて、馬鹿正直に答えられるわけもない。

 夕焼けに染まる彼女からの視線を受けながら、どうにかそれらしい答えを探す。


「当然だよ。部長である私が、キミの機微に気づかないでどうする。……当然、キミが思い悩んでいることは知っているからね。私にはどうすることもできないかもしれないが。でも、話してほしいんだ。いつものようにテスト勉強とかなら、教えられるし、それ以外のことでも言ってほしい」


 彼女の眼差しは、真剣そのものだ。はぐらかそうと思えば、きっと誤魔化せる。それを察して、諦めてくれるぐらいの度量が、坂月先輩にはあるから。

 でもその甘えは、先輩を信用していないことと同義。そんなことはしたくない。どうにも僕は、こんな情けない自分であっても先輩から嫌われたくないなんて、そう思ってしまっている。

 だから、話題を提供しなければならない。けれど、ちょうどいいものが思いつかない。一瞬の内に思考を巡らせて、ふと自分のカバンに入っているそれらが目に付いた。


「……その、先輩は。幽霊とか見たことありますか?」

「……え? ……幽霊?」


 思い出すのは昨日の情景。まるでひと時の白昼夢のような、今となっては到底信じられない屋上でのやり取りを浮かべる。


「い、いや。幽霊は……、見たことはない、かな」

「そうですよね……。実は、昨日、幽霊っぽいモノを見かけてしまって……」

「え!? それは、大丈夫なのか!?」

「あ、はい。実際に触れたりできましたけど、実害はなかったです」


 昨日の出来事をありのまま伝えても良かったけど、幽霊だと思い込んでいる人を見かけた、というよりも幽霊に出会った、と言った方が話題性もあるだろう。そう思っての会話だったんだけど、どうにも先輩は必要以上に驚いているようだった。

 まあ、いきなり幽霊の話とかされるのも対応に困るか。坂月先輩の反応も当然だと言えるし、悪いのは僕の方だ。

 ともあれ、他に振れる話題も特に思い浮かばない。僕はこのまま、夏らしい話を続けることにした。


「幽霊の成仏とかって、どうすればできるんでしょうかね?」

「すまない、白鳥。確認なんだが……、幽霊ってあの幽霊か? その、足が無くて白い着物を着ている……」

「えーっと、足もあるし白い着物は着てませんでしたけど……、まあでも幽霊は幽霊ですかね?」


 僕自身の中でも確定していないからか、つい疑問形になってしまった。

 というか、先輩の想像する幽霊は随分とオーソドックスのような、テンプレそのものな幽霊像を描いている気がする。

 もちろん、僕が思い浮かべる幽霊はあの女子生徒、化野 幽の姿。普通の女子高生で、この学校の制服を着ていて、きちんと地に足付けている。

 他の人と、何も変わらない。

 幽霊か、人間か。見た目での判別はつかない。未だに、彼女が幽霊であるという確証はない。ただ、彼女が自分でそう言っているかどうかでしかない。

 果たして化野の正体がどちらであるか、そう内心思い悩んでいると調子を外したような音が室内に渡った。


「ゆ、幽霊なんてものは非科学的だと、そう思わないか?」

「……先輩?」


 夕陽が沈んでいくと同時にその影を濃くしていくように、先輩の表情も少し暗くなっているように見えた。

 視線はいつものような気の強さや自信に溢れているものじゃなくて、やや慌てているような。ともすれば脅えている、という表現がしっくりくる双眸を映していた。

 一年と少し、坂月先輩を見てきたけどこんな彼女は初めて見る。

 思えば、幽霊という単語を出してから先輩の調子がおかしくなり始めた気がする。

 もしかして、と。いつも以上に小さくなってしまっている先輩に尋ねてみた。


「あの、先輩って……、幽霊苦手なんでしたっけ?」

「う、いや、苦手ではなくてだよ? そういう空想の存在を受け入れる心の準備ができていないというか。いきなり突拍子もないことを言われて理解が追い付いていないというか。全然、怖いわけではないからキミの相談も望むところではあるんだが……」

「すみません。全く気がつかなくて……」

「いやいや、何か勘違いしているみたいだが、幽霊の存在に脅えているわけではないから。そもそも非科学的じゃないか。視えないものを恐れるだなんて」

「まあ、そうですけど……」

「……本当に、キミには幽霊が視えているんだろうか?」


 興味半分、恐怖心半分の瞳で、そう尋ねられる。

 即答はできない。視えているモノは視えている。触ることだってできた。

 だからこそ、昨日屋上にいた彼女が幽霊である保証なんて、どこにもない。それを確かめるために、今日もう一度会うのだから。


「視えてる、と思うんですけどね。一応、今日その人が幽霊かどうか確かめようとは思っています」

「凄いな……。いや、違うんだ。未知のモノに対しての好奇心というか。キミから、そういった話を聞くとは思わなかったから」

「そういえば、先輩と怪談話をする機会ありませんでしたね」

「怪談とか言うんじゃない。そういう話をすると、寄ってくると言うだろう」


 散々今までに幽霊とか言ってきたのに、それは今更だろう。先輩は見るからに顔を青ざめさせて、警戒するように周囲を見渡す。そんな彼女の人間らしい一面を見ることができて嬉しい反面、本当に怖がっているようなのでそろそろこの話題を切り上げた方がいい気がしてきた。


「寄ってきても僕は霊感とかないんで、視えないんですけどね。ただ、その人が特別視えるというか、本当に幽霊なのかも怪しくて……」

「……何やらよくわからないが、キミが精神的に追い込まれすぎて見せた、幻覚であることを私は祈っておくよ。……安心してほしい。キミが誤った道を進もうとしたら、無理やりにでも引っ張り戻すから」


 幻覚という可能性もあるかもしれないけど、今のところ化野と邂逅した時の記憶ははっきりとしていて、その夕焼けの感触でさえ今でも克明に思い出せる。

 蒸されたような熱の中、深く赤黒い夕陽が眩しく目に突き刺さる。

 屋上のフェンス越しに届く爽やかな風の中。

 彼女、化野 幽は確かにそこにいた。

 それは夢であり、夏の幻影だったと言われればそれまでだったけど、それを確かめるために今日、また屋上へと赴くつもりだ。

 彼女の正体が、自分の弱さが作り出したものではないことを、証明するために。


「それじゃあ、キミは今日早く帰った方がいいな」

「……? どうしてですか?」


 先輩に促されて時計を見るとまだ五時前。最終下校時刻には程遠い。


「……だって、暗い時間に幽霊なんて危ないだろうしそれに、視たくないじゃないか」


 弱々しく吐き出された小さなその言葉に、申し訳ない気持ちが湧き上がる。この人はどこまでいっても僕のことを心配してくれている。その配慮が伝わってきて、何を言うよりも先に、彼女の不安を解消したい衝動に駆られてしまう。


「大丈夫ですよ。別にその幽霊、怖い感じじゃないですし、何なら先輩も一緒に来ませんか?」

「断る」


 半ば食い気味に拒否されてしまった。どれだけ後輩のことを目にかけているとしても、譲れないモノはあるようだ。

 先輩はわざとらしく咳払いをしてから、改めて言い直した。


「……すまない。ついて行きたいのは山々なんだが、学業も疎かにしたくないというのが本音なんだ」

「先輩、確か隣の市にある大学を目指してるんでしたよね」

「ああ。……正直私の学力なら問題なく受かるが、それでも今後の人生に関わるポイントだからね。少しでも、後悔はしたくないんだ。……それで――」


 そう語る彼女の瞳が彷徨い、やがてこちらへとピッタリと定められる。まるで親が子どもを叱る前の空気のような、そんな雰囲気が形成されていく。

 嫌な予感が、胸の中に芽生えて顔を覗かせ始めた頃、果たしてそれは、悲しいかな見事的中してしまった。


「白鳥。キミ、テスト勉強はちゃんとしてるんだろうね。赤点ギリギリのキミが、今こうして教科書を開いていないのが不思議でならないんだが」

「――えーっと……」


 返す言葉が見つからない。試験シーズンは大体、坂月先輩には勉強を教えてもらっていた。何もしなければ彼女の言う通り、答案用紙に叩きつけられた赤い点数が宴のように踊り舞うのだけど、今回もきっとそうなってしまうことだろう。

 言葉に詰まって、どうにか上手い言い訳はないものかと探している僕に、クスリ、と。先輩の笑い声が部屋に響いた。


「すまないね。少し、意地悪だった。キミはここ最近小説のことで頑張っていたんだし、私からの宿題もある。責めるつもりはなかったんだ、気を悪くしないでほしい」

「いえ、悪いのは間違いなく僕なんで……。でも、そうですね。帰ったらこの後、ちょっとでも足掻こうと思います」

「うん。それがいい。わからない部分が出てきたら連絡してほしい。いつでも答えるからね」

「……なるべく、頼らないよう努力します」


 そうと決まれば、化野と出会うのも時間を早めてもいいかもしれない。もっとも、彼女との連絡手段を持っていないから、結局待つ羽目にはなる気がするけど。


「それじゃあ、坂月先輩。先に失礼します」

「ああ。良い結果を、期待しているよ」


 彼女の柔らかい笑顔に送り出されるまま、僕はその心地良い空間を後にした。

 待っていたのは、絶妙な温度に満ちた廊下の空気。

 環境は昨日と同じだったけど、何が変わったのか昨日のように走り出したくなったりはしなかった。

 小説のことについて、少しだけ気が紛れているのか。理由は自分でもよくわからなかったけど。

 僕は落ち着いた足取りで、人気の少ない階段を昇っていき、屋上へと向かった。

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