記録第2号「書けない名前」

 次の日も、雨だった。


 放課後の教室。ひとの気配がなくなった静かな空間で、ボクはひとり、ノートの上に鉛筆を走らせていた。


 ページの端に、「身近な現象考察レポート」という課題タイトル。その下に、数行だけ書きかけの文章がある。


 でも、本題はまだ何も書いていない。


 本当は、昨日のことを、書くつもりだった。


 “彼女”のことを。透けて見えた輪郭、傘を差さなかった雨の中の佇まい。思い出すたび、胸の奥が冷たくなるような、不思議な感覚。


 でも、どうしても──書けなかった。


 名前が、思い出せない。……というか、たぶん、最初から知らなかった。


 けど、それだけじゃない。


 名前を、書こうとしたその瞬間。


 手が、動かなくなった。


 まるで、見えない何かが、鉛筆を持つ指を止めたみたいに。


 力を込めても、指先が紙に触れることを拒んでいる。筆圧が抜けていく。言葉の輪郭がぼやけていく。


 ──怖い。


 たった一つの名前が、どうして、こんなにも書けないんだろう。


 試しに、別の名前を書こうとしてみる。クラスメイトの名前、自分の名前、教師の名前。


 全部、書けた。


 でも、彼女の名前だけは、やっぱり、書けない。


 気づいたら、ボクは震えていた。


 ノートを閉じ、机にうつ伏せたそのとき──


「……また、会えたね」


 雨音にまぎれて、教室のドアの外から、声がした。


 ドアをゆっくり開けると、そこにいた。


 昨日と同じ制服。昨日と同じ、傘を持たないまま、肩を濡らした彼女。


「どうして……ここがわかったの?」


 思わず問いかけると、ちょっとだけ首を傾げて、


「わかんない。ただ、呼ばれた気がしただけ」


 そう言って、にこ、と笑った。


 その笑顔に、胸がぎゅっとなる。


 覚えていたのは、たしかにボクのほうだったのに──どうして、彼女のほうが確信を持って笑えるのか、わからなかった。


「さっき、名前を書こうとしたよね」


「……うん。でも、書けなかった」


「そっか」


 小さく頷くと、黒板のほうへ目を向けた。誰もいない教室の奥を、じっと見つめながら、ぽつりとつぶやいた。


「たぶんね、わたしって、もうすぐ“ほんとうに”いなくなるんだと思う」


「……どういうこと?」


「今はまだ、記憶にいる。でも、名前が書かれないまま、誰の中からも消えたら、わたしって、なにも残らなくなるでしょ?」


「残らなくなるって……そんなの、いやだ」


「でも、それが自然なんだよ。わたしみたいなのは、最初から、存在してなかったのと同じだから」


 静かな口調だった。怒っても、泣いてもいない。


 なのに、どうしようもなく、悲しかった。


「わたしのこと、消えても平気?」


 ふいに、こちらを振り返ってそう言った。


 心臓が、一瞬止まった気がした。


 消える? 彼女が?


 ボクは、すぐに「平気じゃない」って答えたかった。


 でも、声が出なかった。


 答えられなかった。


 その瞬間。


 彼女の姿が──すうっと、薄くなった。


 教室の風景が、彼女の輪郭越しに透けていく。


「……そっか。じゃあ、また来るね」


 そう言って、彼女は振り向く。


 静かに、教室の外へ歩き出す。


 ボクは、何も言えなかった。ただ、立ち尽くすしかなかった。


 気がつけば、ノートのページが、勝手にめくれていた。


 そこには、何も書かれていない白紙が一枚だけ、開いていた。




──

本記録は以上。次の記録へ



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