第8話 もうひとつの宝物
—-前エピソードのあらすじ—-
自分の運命を感じ、付喪神の波限と旅に出た沙穂。
海沿いの村を目指す道中で、小綺麗なお堂で夜を明かす。
やっと着いた村で、具合の悪い老女の世話をすることになるのだが…
—-
「今日も元気にしてるかな?」
その日もいつものように、
けれど家の前まで来たところで、
「沙穂、ちょっと待って。少し離れたところで待ってみよう」
「えっ、なんで?」
困惑している彼女の目に、見覚えのある人影が現れた。
あのとき、お堂のお世話をしていた男だった。
「あっ、あの時はお礼もできずに・・・」
「お、おう・・・あの時の尼さんか」
「はい」
沙穂が嬉しそうに顔を上げた瞬間、男の腕に巻かれた美しい紐が目にとまる。
見間違えるはずがない。あの折り紙と一緒に大切にしまってあった、お気に入りの綺麗な紐だ。
「あの、それ、私の・・・」
思わず声が震える。
「あっ、し、しまった」
男の顔が一瞬青ざめる。
「なんで・・・どうしてよ・・・」
混乱する沙穂。
そんな彼女を見下し、男は平然と言い放つ。
「悪りーな。あんたの折り紙だけど、昨日金に替えさせてもらったぜ。珍しいから、いい値がついたぜ。けどよ、あんたやっと気がついたのか。結構間抜けな奴だな」
「あれは、あれは・・・大切な・・・」
子供たちの笑顔と一緒にもらった、かけがえのない宝物。怒りと絶望が心の奥で渦を巻く。
「そんなこと知るかよ。おっと、長居は無用だ。じゃあな」
そう言い捨てると、男はあっという間に走り去った。
彼女の膝から力が抜け、崩れ落ちるように倒れ込む。
声にならない嗚咽だけが、その場を満たしている。
騒ぎを聞きつけた村人が、慌てて駆け寄ってくる。
お婆さんも杖をつきながら家から出てきて、心配そうに彼女に話しかける。
「比丘尼さん、どうなされた?とにかく家に入りなされ」
いつもなら沙穂がお婆さんの話に耳を傾けているのに、今日は立場が逆だった。
少し落ち着きを取り戻した頃、お婆さんが、ぽつりとつぶやいた。
「そういえばさっき、息子の声がしたような気がするんだけど。今日は帰ってくるのかねぇ?」
「えっ?」
沙穂は息を呑んだ。あの盗人が、この優しいお婆さんの息子だった?
とてもそんな真実を告げることなどできない。
その夜、沙穂はずっと声を押し殺して泣き続けた。
傍に、波限が心配そうに寄り添っているのがわかる。
「ごめん波限。わたし…多分大丈夫だから」
心配した和尚に休むよう言われたが、沙穂は翌日、またその翌日も、お婆さんの元を訪れ続けた。相変わらず彼女は幼い子供のような笑顔を沙穂に向けてくれる。
それだけが、彼女の心を支えていた。
やがて季節は移ろい、冬の足音が聞こえ始めた頃、お婆さんの具合はいよいよ悪くなり、沙穂の懸命な祈りも虚しく、ある日消え入るようにその命を全うした。最期に「楽しかったよ」の言葉を残して。
---
しめやかに営まれた葬儀も終わりに近づいた頃、あの男が姿を現した。
その頬には涙の跡がある。
沙穂は急に怒りにも似た感情が込み上げてくるのを感じたが、必死にそれを押さえ込んだ。
男は震える声で、今は亡き母に向かって語り出した。
「母ちゃん…ごめんな。
俺、意地張って何もしてあげられなかった。
金貯めていい薬買おうと思ったけど、結局できなかった。
せめて笑顔にしてやりたかったのに、それすらできなかった」
「だけどな、この尼さんと話してる母ちゃんの顔がすげえ楽しそうで…それが、それが俺、嬉しくってさ。よかったな、母ちゃん」
そして男は紗穂の方に向き直った。
無表情な、冷たい目で男を見つめる紗穂。
男は、震える手で大切そうに包みを差し出した。
「俺…あんたが母ちゃんの世話をしてくれてるって知って、なんか自分がどうしようもなく情けなくなっちまって。それであれから慌てて買い戻したんだ。でも、勇気がなくって、返すに返せなくなって今頃、今頃・・・すまなかった」
包の中には、沙穂が子供たちから貰った大切な折り紙が、少しも傷つくことなく綺麗なまま入っていた。
彼女は無言のまま軽く会釈をし、それを受け取った。
葬儀は無事に終わり、今度は男が深々と頭を下げる。
「心から、お母さんと向き合える日が来ますように」
沙穂はそれだけ言い残すと、静かに寺へと帰っていった。
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戻ってきた折り紙をそっと手に取る沙穂。
「この子たちにも怖い思いさせちゃったのかな」
「そりゃあ怖かっただろうな。でも沙穂もよく耐えたな」波限が静かに答える。
彼女は黙ってしまった。
少しの沈黙のあと、波限がそっと言う。
「でもさ、沙穂にはもうひとつ、大切な宝物が増えたんじゃない?」
「…うん」
少しはにかんだような笑顔を浮かべ、沙穂は頷いた。
「ハハッ。お前さぁ滅多に笑わないから、俺も嬉しいよ」
「何それ?私が無愛想だって言いたいの?」
「いや、その…そんなつもりじゃないって」
いつもの紗穂に戻りつつあった、そんなある日、彼女は旅の続きを始めることを決めた。そしてせめてものお礼にと、お寺とお婆さんの家があった場所に、大好きな椿の若木を植えた。春になればきっと美しい花を咲かせるだろう。
翌日、椿の木に背を向け、沙穂と波限は再び歩き出した。
いくつもの大切な宝物を心に携えて。
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