第8話 灯台へ
翌朝、目覚めた瞬間から、胸の奥にざわめきが渦巻いていた。夢の名残のように、誰かに名を呼ばれた気がする。窓の外は灰色の雲に覆われ、海は鉛のように沈んでいる。雨はやんでいるのに、潮の匂いがやけに濃く、まるで海そのものが近づいてきているかのようだった。
──灯台が呼んでいる。
その言葉が、唐突に頭をよぎった。理屈ではない。ただ、行かなければならない、そう強く感じていた。昨日の出来事が脳裏をよぎる。佐吉さんの姿、白いワンピースの女性、そして「見つけた」という声。全部が一つの場所を指し示しているようだった。
けれど、足はすぐには動かなかった。行けば戻れなくなる。そんな確信があった。背中に冷たいものが走り、喉が乾く。恐怖と焦燥がせめぎ合い、息が乱れる。それでも、耳の奥で波音と鈴の音が重なり合い、私を追い立てる。
気づけばコートを羽織り、玄関のドアに手をかけていた。外の空気は冷たく、遠くの岬に立つ灯台が、霧の向こうでかすかに光を放っている。その光は、まるで「ここへ来い」と呼びかけているように見えた。
港の道を歩いていると、二人の中学生が傘を差して待っていた。昨日と同じ顔ぶれ……そう思った瞬間、胸の奥に小さな棘のような違和感が生まれた。
「こんにちは!」
彼らは笑顔で手を振った。その明るさに思わず返事をしたものの、視線は足元へと引き寄せられる。濡れたアスファルトの上には、三人分の足跡がくっきりと刻まれていた。雨で流されるはずのそれは、防波堤の方へ伸びて途中で唐突に消えている。
「釣りはしないの?」と私が声をかけると、二人は顔を見合わせて首を振った。
「今日はダメです。魚、全然いなくて」
「朝からずっと竿を出してたけど、エサも減らなくて……」
彼らの片方がポケットからカードを取り出す。昨日見せてもらったスタンプラリーのカードだった。灯台の欄に押されたスタンプは、今日見るとインクが滲み、輪郭が溶けたようにぼやけている。
「ほら、これ。押したときは普通だったのに」
「なんか、濡れたみたいになっちゃって……気持ち悪いですよね」
私はカードを手に取った。その表面には確かに水滴がにじんだ跡がある。けれど彼らの服も鞄も乾いていて、スタンプが濡れる理由はどこにもなかった。
「ねえ……佐吉さんを、見ませんでした?」
片方の少年が、不意に声を潜めた。
「朝、灯台の近くに立ってるのを見たんです。白い人と一緒に」
「白い人?」
「うん……白い服の女の人。鈴を持ってて」
心臓が強く打ち、足が自然に灯台の方へ向いてしまう。昨日、あの店の前で見た白いワンピースの女。その姿が脳裏に蘇った。
「でも、僕らはもう帰ります」
二人は同時にそう言って、雨具のフードを深く被った。笑顔は崩れていないのに、その目だけが怯えていた。
「行かない方がいいですよ」
「灯台は……呼ばれてる人しか、入れないから」
そう告げて彼らは背を向けた。歩き出した二人の背中の横に、もう一人分の濡れた傘が地面に転がっているのが見えた。持ち主のいないそれは、音もなく雨を受け続けていた。
灯台の前に立った瞬間、全身の毛穴が粟立つのを感じた。海から吹き上げる風は冷たく、霧が足元を這うように流れていく。近づくにつれ、古びた鉄の扉が姿を現した。錆びついた取っ手には、長い年月の潮が固まり、触れるのをためらわせるほど赤茶けている。
扉の前の地面には、濡れた足跡が点々と続いていた。中学生が言っていた「佐吉さん」の姿が頭をよぎる。三人分の足跡は、ここで重なり合い、そして扉の下へ吸い込まれるように途絶えていた。
扉の隙間からは、湿った空気が漏れ出している。潮とカビと、説明のつかない匂いが混じり合い、喉の奥をざらつかせた。遠くで、かすかな鈴の音が鳴った気がした。私の背筋を押すようにして、錆びた扉は軋みをあげながら、ゆっくりと開いていった。
扉をくぐった瞬間、湿った空気が一気に肺へ流れ込んだ。外の冷たい風よりも重く、海と土とカビの混じった匂いが鼻を突く。目の前には螺旋階段がそびえていた。狭く、鉄の手すりは黒ずみ、壁には長年の湿気で染みが広がっている。
一歩踏み出すごとに、靴底が石段に吸い付くようにぬめり、足音が鈍く反響した。上へ行くほど空気は冷え、背後で閉じた扉の軋みが、いつまでも耳に残る。
壁に目を凝らすと、無数の刻まれた文字や印が見えた。指でなぞると、削られた跡はざらりと荒く、そこに「昭和五十七年」「拓海」「帰れず」など判読できる言葉が散らばっている。どれも古び、誰かの願いや叫びの痕跡のようだった。
階段は果てしなく続き、息が上がる。どれほど登ったか分からない頃、ふと視界の端に白が揺れた。反射的に立ち止まる。湿った壁際、霧のように淡く浮かぶ影。
白いワンピースの女性が、こちらに背を向けて立っていた。髪は濡れて背に張り付き、片手に小さな鈴を握っている。動かない。だが、確かにそこに「いる」としか言いようのない存在感を放っていた。
「……誰?」声が漏れた瞬間、彼女が振り返る。顔はぼやけ、目だけが異様に澄んでこちらを射抜いた。
鈴の音が、静まり返った階段に響いた。チリ、チリ、と乾いた金属音。足元を見ると、さっきまでなかった水滴が石段に落ちている。滴は階段を這うように連なり、まるで誰かが先に歩いていった痕跡のように、上へ上へと続いていた。
次の瞬間、女性の影は霧のように掻き消えた。残ったのは湿った石の冷たさと、胸の奥に焼き付いた視線の感触だけ。
私は荒い呼吸を押さえ込みながら、再び階段を見上げた。まだ終わっていない。何かが、この上で待っている。
螺旋階段の最後の段を踏みしめた瞬間、張りつめていた体の力が抜け、私はその場に立ち尽くした。胸の奥で荒く脈打つ鼓動が、耳の奥でやかましく響く。長い道のりを登り切った安堵と同時に、これから目にするものへの恐怖が背中を冷たく撫でていた。
最上階の空間は、思った以上に広かった。厚いガラス越しに見下ろす海は、鉛のような灰色に沈んでいる。霧が渦を巻き、波が塔の根元を叩きつけていた。中央には巨大なレンズが据えられ、淡い光を放ちながら部屋の隅々まで揺らめかせている。その光に照らされ、床や壁に映る影は、人影のように幾重にも重なって見えた。
その光の傍らに、一人の姿があった。
「……来たか」
静かに響いた声に、私は息を呑んだ。マスターだった。
彼は私に背を向け、窓の外を見つめている。その手には、昨日も見た航海日誌が握られていた。表紙は水に濡れたように波打ち、ページの端は擦り切れている。
「どうしてここに……」かろうじて声を出すと、マスターはゆっくりと振り返った。
顔には深い疲労の色が刻まれていたが、その眼差しは驚くほど鋭く、私を真っすぐ射抜いた。
「潮が満ちるたびに、この灯台は呼ぶ。お前も、もう感じているはずだ」
その言葉と同時に、灯火が強く脈打った。光が波のように押し寄せ、壁に揺れる影がざわめく。まるで数えきれない人々がここに立っているかのように。
マスターは航海日誌を開き、私の目の前に差し出した。並んだ「一名消」の文字列。その中に、私の知るはずの名前が混ざっているのを見つけ、喉が凍りついた。
言葉を失う私に、マスターは静かに告げる。
「ここで消えたものは、誰一人として忘れ去られない。だが、その代償を知る覚悟があるのか」
稲光が走り、塔全体が軋む。鈴の音が、海の奥からかすかに響いた。
私はその場に立ち尽くし、これから語られる真実の重さを直感していた。
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