第7話 灯台の影
朝、目覚めると雨は止んでいた。窓の外にはまだ鉛のような雲が垂れ込め、波打ち際から湿った潮の匂いが押し寄せてくる。昨夜の出来事を夢のように振り払おうとしたが、白いワンピースの女性の姿と「──見つけた」という声が胸の奥に刻み込まれていた。
テーブルに置いたカメラを手に取り、昨夜の写真を確かめる。カフェの前の風景が写っている。だが、そこに立っていたはずの佐吉さんと彼女の姿はない。代わりに、その位置に光の滲みが残っていた。海の底から滲み出す冷たい光のようで、触れてはならないものを閉じ込めた印のように見えた。
気持ちを落ち着けようと、私はカフェに向かった。扉を開けると静まり返っており、カウンターの奥から美咲さんが顔を出した。
「おはよう、遥ちゃん。……マスターなら港に行ったわ」
彼女の声はかすれていた。私は昨夜のことを口にしようとしたが、言葉を探す前に、美咲さんが先に言った。
「見たのね。……潮が満ちる夜を」
胸が跳ね、私は息を呑む。彼女は微笑んだが、瞳はひどく哀しげだった。
「ここではね、見えてしまった人は、もう知らないふりはできないの」
「知らないふり……?」
「マスターも昔、一度“見つけられた”ことがあるの。だから、臨時休業にする。……守ろうとしているの」
「何を……守るんですか?」
「それは……」彼女は言葉を飲み込んだ。「……行けば、わかる」
私は追及できず、ただ「守る」という言葉を抱えて港へ向かった。
そのときだった。昼なのに、港全体に鈴の音が広がった。昨日と同じ、錆びついた古い音。霧のように町に染みわたり、家々や道路の隙間から響いてくる。私は思わず立ち止まり、耳を塞いだ。
視界の端に、昨日会った中学生たちが見えた。だが今日は二人しかいない。声をかけると、彼らはぎこちなく笑った。
「昨日は一緒に帰ったんですよ」
「三人で?」と聞くと、二人は一瞬顔を見合わせた。
「三人……?」
「いや、最初から二人だよ。僕ら、いつも二人で遊んでるし」
私は言葉を失った。だが、確かに昨日は三人いた。スタンプラリーのカードを見せてくれた少年。釣り竿を抱えて笑っていた少年。三人の声を、私は鮮明に覚えている。
「……名前、なんて言った?」私は思わず聞いた。
二人は目を泳がせ、口をもごもごと動かした。だが、出てくる音は意味を成さなかった。まるで舌がその名前を拒むように。
「……誰のこと?」
その言葉で背筋が凍る。彼らの記憶から、確かに“誰か”が消えていた。
二人は困ったように笑い、やがて逃げるように去っていった。私はその場に立ち尽くし、冷たい風に頬を打たれながら、深い孤独に沈んだ。
──この町では、人が消える。
そして、残された人々の記憶までもが削られていく。
ポケットの写真を取り出す。紙はじっとりと湿っており、昨夜の光の残像がまだ消えずに残っている。まるで「ここにいた」と訴えるように。
そのとき、灯台の光が昼間に不自然に明滅した。規則的な合図のように、海を切り裂いて。私は無意識に立ち上がり、灯台を凝視した。
背後から、鈴の音がまた近づいてくる。一歩、一歩、誰かが歩み寄るように。私は防波堤の影に身を隠したが、心臓の鼓動が耳に痛いほど響く。
灯台の上に人影が立っていた。逆光で輪郭しか見えないが、私は知っている。その姿は──佐吉さんだった。
彼は静かにこちらを見下ろし、右手を高く掲げて振っていた。穏やかな笑みを浮かべ、まるで「おはよう」と挨拶するかのように。だが、その笑顔はどこか透けていた。海霧に紛れるように、輪郭が揺らいでいる。
「……佐吉さん!」思わず声を張り上げた。
その瞬間、風が強く吹き、鈴の音が一層大きく響いた。港全体が共鳴しているかのように。
佐吉さんの姿は灯台の影に飲み込まれ、ふっと消えた。けれど、確かに彼は私を見ていた。手を振っていた。その確信だけが残り、胸を焦がす。
──逃げても、意味がない。
そう悟った。いや、悟らされていた。足をすくませながらも、視線は自然と灯台へ吸い寄せられる。
灯台が呼んでいる。昨夜の声と同じように、「見つけた」と囁きながら。
もし行けば、もう戻れないかもしれない。
それでも私は知っていた。行かねばならない、と。
潮の香りが濃くなる中、私は灯台へ向けて一歩を踏み出した。
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