第6話 空白の航跡
朝、目覚めると、窓の外は鉛色の空が広がっていた。夜のうちに降った雨が地面を濡らし、海の匂いは潮の香りよりも土の湿った匂いが勝っている。雨粒が瓦屋根を叩く音が、やけに耳に残った。体の奥には、昨日感じた冷たい雫の感触がまだ残っていた。夢の中で聞いたのか、現実に触れたのか、曖昧な感覚が皮膚の下に沈んでいる。もう一度、航海日誌のページを思い出そうとしたが、あの数字以外は霧がかかったようにぼやけてしまう。
私は傘を差し、カフェへと向かった。町は雨のせいか人気がなく、通りを歩く人影は見当たらなかった。港の方からも漁の声が聞こえず、ただ雨脚と風の音が世界を支配していた。
カフェに入ると、そこもひどく静かだった。カウンターもテーブルも、ぴたりと時が止まったように動きがない。マスターも美咲さんも、いつものように準備をしている気配がなかった。壁の時計は、昨日と同じく「5時45分」を指したまま。秒針すら動かず、まるで空気ごと止められたように見えた。
「マスター?」
恐る恐る声をかけると、厨房の奥から「ああ、遥ちゃんか」とくぐもった声が返ってきた。カーテンをかき分けると、そこにマスターが一人で立っていた。その手には、昨日私が目にした航海日誌が握られている。ページの端が濡れて歪み、読まれては閉じられた痕跡があった。
「……今日は、臨時休業だ」
その声には普段の穏やかさがなく、乾いて疲れ切っているようだった。
「どうしてですか?」
「潮が満ちる。……潮が満ちる日は、静かにしておかなければならない」
彼は日誌を棚に戻した。その手元を見て、私は息をのんだ。腕には、昨日の佐吉さんと同じような深い傷跡が刻まれていた。古く、けれど消えないほどの深さ。なぜ昨日は気づかなかったのか。
戸惑う私に、マスターは静かに問いかける。
「君は、あの海に何を見た?」
「え?」
「昨夜、君を呼んでいたんだろう」
答えられなかった。否定も肯定もできず、ただマスターの真剣な瞳を見つめる。彼はそっと私の肩に手を置いた。その掌は温かいはずなのに、体の奥に冷たいものが忍び込んでくるような感覚が走った。
「この町はな、過去を、そして失ったものを、忘れない。写真に写らなくても、時間は止まっていても、ここにいるみんな、あいつらを覚えているんだ」
そして彼は、これまで私が感じてきた違和感を一言で示した。
「あいつらは……潮が満ちる日に、海に戻ってくる。そして、まだここにいる誰かを探している」
背筋が凍りついた。航海日誌に記された「一名消」、掲示板に書き換えられた時刻、写真に写らない人々、夜に聞こえる鈴の音──それらが一つに繋がる。
「その……白いワンピースの女性は」
「もう、聞かないでくれ」
マスターは顔を背け、店の奥へ姿を消した。私は一人、止まった時間の中に取り残された。
昼過ぎ、雨が小降りになったので、思い切って港へ出た。鉛色の海面は空を映し、重たく揺れている。漁船は一隻もなく、防波堤には雨粒だけが弾んでいた。昨夜の裸足の足跡も、すでに雨に洗い流されている。
そんな中、防波堤に中学生の三人組を見つけた。雨具を着て釣竿を抱えているが、どこか落ち着かない様子だ。
「あれ、お店休みなんですか?」
声をかけられ、私は答えた。
「うん、臨時休業だって」
三人は顔を見合わせ、声をひそめる。
「やっぱり……」
「やっぱり?」と聞き返すと、一人がポケットからカードを取り出した。スタンプラリーの用紙だ。
「今日、変なんですよ。朝からずっと。魚も全然釣れないし……」
見せてもらったカードには、灯台のスタンプが押されている。けれど、そこだけインクが滲んで薄れていた。
「押したときは普通だったんです。でも気づいたら、こんなふうに……」
彼らが首を傾げる横で、私は自分のポケットに触れた。そこには昨日現像した写真がある。指先に触れると、紙がしっとりと湿っていた。写真に閉じ込められた光の塊が、まだどこかで滲み続けているように。
そのとき、遠くから鈴の音が響いた。
「鈴だ!」
一人が海の方を指差す。
「なんで……こんな日に」
三人は顔色を変え、釣竿を抱えて一目散に走り去った。私はただ立ち尽くし、音のする方を見つめた。
鈴の音はゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。間隔が短くなり、足音のように連なって耳に迫った。雨が再び強まり、港を白く煙らせる。私は防波堤の影に身を潜め、呼吸をひそめた。
音は私の真横を通り過ぎ、カフェの前で止まった。恐怖に逆らい、私はそっと顔を出す。
そこにあったのは、写真に写らなかった光景だった。
白いワンピースの女性が、店の前に立ち尽くしている。手には古びた錆びた鈴。雨に濡れた髪が頬に張りつき、無表情のままこちらを見ていた。その瞳は、誰かを探しているように空虚だった。
次の瞬間、彼女の背後からもう一人の影が現れた。
佐吉さんだった。
彼は彼女の隣に並び、静かに微笑む。私に気づくと、まるで「おはよう」とでも言うように手を振った。その姿は優しいのに、雨粒をまとった輪郭は徐々に透けていく。
二人の足元には、水の跡が点々と続いていた。その跡はやがて私の足元へと伸び、目前でふっと消えた。
無人の空間から、もう一度、鈴の音が響いた。
──その瞬間、私の頭の中に声が響いた。
──見つけた。
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