第5話 港の底から

朝の港は、妙に静かだった。

海はいつも通り穏やかに見えるのに、漁船は桟橋に並んだまま出ていない。

船底を磨く漁師たちは、私を見ると一瞬だけ目を合わせ、すぐに視線を逸らした。

港町に来てから、こんな空気を感じたのは初めてだった。


「今日は……出ない方がいい」

近くで網を直していた老人が、誰に言うでもなくつぶやく。

聞き返そうとしたが、老人はもう背を向けてしまっていた。


カフェに戻ると、美咲さんが仕込みをしていた。

「市場に魚を取りに行ってくれる? 荷台は外に置いてあるから」

頼まれて市場へ向かう途中、港の掲示板が目に入った。

昨日までは「5:45」と記されていた時刻が、今朝は「4:12」に変わっている。

意味を尋ねようとした瞬間、通りの人が私の肩を軽く押し、「立ち止まるな」と小声で言った。

その声が妙に冷たくて、背筋がぞくりとした。


市場で魚を受け取り、カフェに戻るとマスターは仕入れに出かけており、美咲さんが一人でレジを打っていた。

「おかえり」

彼女はにこやかに言いながらも、視線は私の手元——荷台の魚ではなく、私の腕時計に向いていた。

「……時間、ずれてない?」

時計を見ると、秒針が不規則に進んでは戻っている。


午後、客足が途絶えた頃、私は倉庫の整理をすることにした。

奥の棚を動かすと、小さな木箱が現れた。

蓋を開けると、中には分厚い革表紙の航海日誌が入っていた。

ページをめくると、短い記録が淡々と並んでいる。


「1978年8月14日 霧濃し 5:45 岸壁より一名消」

「1989年11月3日 波静か 4:12 港外れより一名消」


あの掲示板の時刻——数字はずっと昔から繰り返されていた。

「……見つけたのね」

背後から声がして振り返ると、美咲さんが立っていた。

彼女は無言で日誌を木箱に戻し、蓋を閉めた。

「このことは……マスターには言わない方がいい」

低い声に、有無を言わせぬ力がこもっていた。


日が落ちたころ、港の方から灯りがゆっくりと動いているのが見えた。

興味に引かれ、上着を羽織って外に出る。

防波堤の先で、町の人々が円を作り、灯籠の光を波間に揺らしていた。

中央には古びた木箱が置かれ、隙間から潮水が滴っている。

耳を澄ますと、鈴の音と低い呟きが重なり合っていた。


一歩踏み出そうとした瞬間、足元の砂に「かえれ」という文字が浮かび、次の波で消えた。

背筋が冷たくなり、私はその場を離れた。


夜、布団に入って間もなく、窓の外から女性の歌声が聞こえた。

旋律はゆっくりと波に揺れ、時折鈴の音が混じる。

気づけば私は靴を履き、外へ出て港へ向かっていた。


灯台が一定の間隔で明滅している。

突端に白いワンピースの影が立ち、こちらを振り返った。

その目が暗闇の中でわずかに光ったように見えた。


足元の板が濡れ、冷たい海水が靴下まで染み込む。

背後から鈴の音が近づき、肩に冷たい雫が落ちた。

振り向いたが、そこには誰もいなかった。

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