第4話 霧の晩
朝から港は淡い霧に沈んでいた。空も海も境目を失い、白い世界の中で音だけが遠くから届く。カモメの声は柔らかく曇り、波の音はぼやけ、まるで誰かが厚い布で町全体を包み込んでいるようだった。
カフェの窓を拭いていると、マスターがカウンター越しに視線を上げた。
「今日は観光客は少ないだろうな。霧の日は、地元の人も早く帰る」
その声には、どこか帰らなければならない理由が滲んでいるように思えた。午前中、訪れた客は常連が数人。ドアベルの音も、コーヒーを淹れる音も、やけに響いてはすぐに霧に吸い込まれていった。
暇を見つけてカウンター奥の棚を整理していると、古びた封筒が一つ出てきた。封は開いており、中には数枚の写真。どれも港や灯台を写しているが、人影はほとんどない。撮られた時期や天気は違うはずなのに、不思議なことに全ての写真に薄い白霧が写り込んでいた。
「それ……見つけたのか」
マスターの声が低く落ちた。いつもの穏やかさが消えている。私は問い返そうとしたが、彼は一瞬こちらを見たきり、奥に引っ込んでしまった。その背中は、まるで見られたくないものを隠すようだった。
昼を過ぎても霧は濃くなるばかりで、窓の外は真っ白だ。港の赤いクレーンも影のようにしか見えない。美咲さんが「今日は早く閉めよう」と提案し、私も頷いた。引き戸を閉めた瞬間、湿った霧が肌にまとわりつき、頬の温度を奪った。
そのときだった。
港の方から、微かな鈴の音が聞こえた。金属の澄んだ響きではなく、どこか古びて、錆が混じったような音色。一定の間隔で鳴っており、不思議と耳にこびりつく。
気づけば足が音の方へ向かっていた。濡れた石畳は滑りやすく、足音は吸い込まれるように消えていく。防波堤の先に、人影が立っていた。
白いワンピースを着た女性。長い髪が湿気で背中に張りつき、海の方をじっと見つめている。声をかけようと口を開いた瞬間、霧がふわりと濃くなり、その姿は煙のように消えた。
夕暮れ、部屋で湯を沸かしていると、窓の外が異様に明るくなった。灯台の光がこちらをまっすぐに照らしている。しかし、その光は一定ではなく、短く明滅を繰り返していた。まるで何かの合図のように。
あの港の掲示板に書かれていた5:45という数字が脳裏に浮かび、胸がざわつく。
我慢できず外に出る。霧の中から、再び鈴の音が近づいてきた。最初は遠く、やがて耳元に届くほど近くなる。足音はない。ただ湿った空気が背後で動く気配だけがある。
音は私のすぐ後ろで止まり、空気が冷たくなった。振り向く——しかし、そこには誰もいない。足元の石畳には、小さな裸足の足跡が港の方へ続き、途中でふっと途切れていた。
遠くで灯台の光が霧を裂くように回る。その光が防波堤の先を照らした瞬間、ほんの一瞬だけ、白い影が立っているのが見えた。だが次に光が回ったときには、もう何もなかった。
翌朝、霧は嘘のように晴れ、港は青空の下に戻っていた。昨日の足跡も、白い影も、どこにも残っていない。
それでも耳の奥には、あの錆びた鈴の音が、まだ消えずに響いていた。
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