たい焼きとたこ焼きの夏、君に焦がれて

舞夢宜人

第1話 夏の終わりと、不完全燃焼の二人

 じりじりとアスファルトを焦がす太陽が、部屋の中までその熱を届けてくる。窓を開け放っても、吹き込んでくるのは肌にまとわりつくような生温い風ばかりで、机に向かう気力を容赦なく削いでいった。シャーペンの芯が、意味もなくノートの上を滑る。びっしりと黒い文字で埋め尽くされた参考書は、まるで異世界の呪文のように現実味がない。

 佐久馬丈瑠(さくま たける)は、大きく一つため息をつくと、軋む椅子に深くもたれかかった。

 高校最後の夏。インターハイ予選で敗退し、男子バレー部を引退してから一ヶ月が過ぎようとしていた。周囲はとっくに受験という現実に向き合い、教室の空気も浮ついたものから張り詰めたものへと変わっている。丈瑠もまた、その流れに乗らなければならないことは、痛いほど分かっている。県内の国立大学、工学部情報工学科。親の勧めもあり、なんとなく定めた目標。しかし、そのゴールテープは、ひどく色褪せて見えた。心が、まるで置き去りにされたみたいに空っぽだった。

 ふと、部屋の隅に立てかけてある、使い古されたバレーボールが目に入る。指先で何度も確かめた革の感触、汗の染み込んだ匂い。それらはすべて、コートの外側の記憶と結びついていた。ベンチという名の特等席から見つめた、三年間という時間。


 ――体育館は、凄まじい熱気と割れんばかりの歓声で満ちていた。

 床を叩くシューズの摩擦音、ボールが弾ける乾いた音、飛び交う怒号にも似た声援。その全てが、丈瑠のいるベンチまではっきりと届く。コートの中央で、彼女は誰よりも高く、そして美しく跳んでいた。

 七瀬結愛(ななせ ゆあ)。

 同じクラスだが、ほとんど話したことはない。女子バレー部の絶対的エース。しなやかに反った背中は、まるで満月を背にした弓のように、力と美を兼ね備えていた。キュッと引き締められた唇、真剣な眼差しでボールの軌道を見据え、チームメイトが繋いだトスに、すべての信頼を乗せて飛び上がる。

 放たれたスパイクは、相手コートに突き刺さる鋭い稲妻のようだった。沸き立つ仲間、総立ちになる観客席。その中心で、彼女は小さく拳を握るだけだ。決して驕らず、すぐに次のプレーに意識を集中させている。その揺るぎない精神力こそが、彼女をエースたらしめているのだろう。

 すごいな、と素直に思った。

 それは純粋な尊敬であり、同時に、決して手の届かない場所への憧れだった。三年間、ただの一度もレギュラーのユニフォームに袖を通すことができなかった自分。ボール拾いと声出し、そしてベンチから仲間を応援することだけが、丈瑠に与えられた役割だった。同じバレーボールに青春を捧げたつもりでいたが、彼女が見ていた景色と、自分が見ていた景色は、きっと天と地ほども違うのだろう。

 不完全燃焼。その言葉が、夏の気怠さと共に胸に重くのしかかる。何かをやり遂げたという実感がないまま、季節だけが次のステージへと移り変わろうとしていた。


 同じ時、七瀬結愛もまた、自室の窓からぼんやりと外を眺めていた。

 風鈴がちりんと涼やかな音を立てるけれど、心の靄は少しも晴れない。男子と同じく、彼女もインターハイ予選で敗退し、引退という名の虚無期間にいた。エースとしての重圧から解放された安堵と、目標を失った喪失感が、奇妙なバランスで同居している。

 机の上には、チームメイトと撮った最後の集合写真が飾られていた。みんな笑顔なのに、自分だけが、どこか無理して笑っているように見える。その隣に置かれたバレーボール専門誌。表紙には、全国の強豪校のエースたちの姿があった。もし、あの時……。

 考えまいとしても、記憶は灼けつく太陽のように鮮明に蘇る。


 ――最後の試合。フルセットの末に迎えた、マッチポイント。

 体育館の全ての視線が、自分に突き刺さるのを感じていた。息が苦しい。心臓の音が耳元でドクドクと鳴り響く。大丈夫、いつも通りやればいい。何度も自分に言い聞かせた。セッターからのトスが、ふわりと上がる。それは、結愛が一番打ちやすい、寸分の狂いもない完璧なボールだった。チームメイトの、仲間たちの、想いが詰まったボール。

 相手のブロッカーが二枚、目の前に巨大な壁となって立ちはだかる。その壁の向こう側、ほんのわずかな隙間が見えた。そこを抜けば、勝利は目前だった。

 いける。

 そう確信した瞬間、ほんのわずかな焦りが、身体のバランスを崩したのかもしれない。振り抜いた右腕。ボールを捉えた掌の感触は、いつもより硬く、鈍かった。

 ガンッ、と鈍い音を立てて、ボールは無情にもネットに突き刺さる。

 時が止まった。あれほど騒がしかった体育館が、シンと静まり返ったように感じた。歓声も、チームメイトの声も、何も聞こえない。スローモーションのようにコートに落ちていくボールを、ただ見つめることしかできなかった。

 長く、長く響いたホイッスルが、試合の終わりと、自分たちの夏の終わりを告げた。

 「私のせいで、負けた」

 誰に言うでもない言葉が、唇からこぼれ落ちる。チームメイトは誰も結愛を責めなかった。「結愛がいたからここまで来れたんだよ」と、泣きながら抱きしめてくれた。その優しさが、鋭い刃のように、余計に胸を締め付けた。

 自分の掌を見つめる。エースとして、チームを勝利に導くはずだったこの手で、最後の夢を打ち砕いてしまった。その罪悪感が、今もなお、黒い染みのように心にこびりついて離れない。


 何かを変えなくては。

 このまま、後悔と無力感を引きずったまま、夏を終えるわけにはいかない。

 丈瑠も、結愛も、同じ思いを胸に抱えていた。けれど、何をすればいいのか、どこへ向かえばいいのか、その答えを見つけられないまま、ただ時間だけが過ぎていく。

 うだるような暑さの中、県立富岳高校三年生の夏は、まだ始まったばかりだった。

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