雨路(あまじ)に立つ
湊 マチ
第1話 序章、登場人物紹介・用語解説
序章
午前6時12分。
羽鳩市役所の屋上は、海の匂いが濃かった。
早瀬綾芽はレーダーの更新秒読みを唇でなぞる。60、45、30。数字は確かでも、空の色はいつも曖昧だ。沖から這い寄る雲の縁が、街の輪郭をひと筆で塗りつぶそうとしている。
背後のドアが開き、潮風が少し強くなる。
「戻ってきて、どうだ」
「海と川の距離が、前より近い気がします」
「それ、詩織さんの口癖だな」
消防の鶴田が笑う。母の名に、綾芽はわずかに眉を寄せた。画面の上で、点々が細い線になり、やがて帯に結び直される。予測円の外で、雲は生まれ直していた。
午前8時03分。
最初の会議を終えた綾芽の端末に、差出人不明のメールが届く。
件名は短い。《港の夜警》
添付は手描きの避難図。矢羽で人の流れが示され、地下街の非常階段だけ蛍光ペンで強調されている。市の公式図ではない。だが、今の雲の足に妙に合っていた。返信の指を止め、綾芽は電話を取る。
「天心地下街です。非常階段のカギ、開いてますか」
「昨夜から。——“夜警”から来ると思って」
午前10時40分。
短いスコールが街を叩き、空は鈍い明るさを取り戻す。綾芽は地下街の踊り場で、古い光るテープを見つけた。角が丸く、踏み跡で薄くなった矢印。管理担当の御堂が肩をすくめる。
「昔、誰かに頼まれて貼ったらしくて。正式な予算じゃないから、色も規格外なんです」
綾芽は膝をつき、指でテープの縁を撫でた。ザラつく触感が記憶を撫で返す。あの人の仕事の手触りに、少し似ていた。
正午。
潮位表は、夕方から夜にかけて上がる線を描く。衛星画像の帯は細い筋を伸ばし、同じ場所で増えては消え、また生まれる。
綾芽は画面を閉じ、机に額を寄せて小さく呟いた。
「見えるようにしよう。見えないものを」
午後1時12分。
ローカルFMから、若い声が流れる。
「この時間、名香川の水位が上がり始めています。地下街をご利用の方、非常階段の矢羽を目印に、一段だけ登って様子見を——止まらず進みましょう」
通りでは、雨粒が細く速くなる。堤の上で、古いボランティアの男が目を細め、右の耳で水を、左の耳で風を聴く。
地下街の機械室では、清掃の少女がポンプの唸りに眉を寄せる。
それぞれの耳が、まだ誰のものでもないひとつの線に向かっていた。
午後3時01分。
綾芽の端末が震える。
《港の夜警:第2図》
矢羽は、さっきより短い。けれど確かに、人が人に渡せる長さで描かれている。
雨は線を作る。
人も、線になる。
見えない堤は、そうやって築かれる。
綾芽は送信者の名を問わず、図のとおりに電話し、歩き、貼り、頼んだ。誰かが頷く。誰かが走る。
帯は、まだ動かない。
けれど、この街の呼吸は、ゆっくり深くなっていく気がした。
⸻
登場人物紹介
行政・現場
•早瀬 綾芽(28)
〈雨路センター〉防災気象情報士。東京から戻ったばかり。母・詩織の“判断”と向き合うために羽鳩へ。合言葉:見えないものを見えるように。
•鶴田 岳(34)
消防局・水害救助の現場指揮。寡黙なリアリスト。人命最優先と「止めないで止めさせる」を両立させる段取り屋。
•霧島 蓮(23)
区役所 防災係の新人。マニュアルの外側を現場で学ぶ。失言も多いが素直で速い。
•花井 進(58)
名香川の河川技術者。潮止め水門の開閉判断で過去に炎上経験。孤立しがちな技術官。
地下街・ライフライン
•御堂 夏海(30)
天心地下街 管理担当。苦情と実務の板挟みをほどく達人。非常階段の鍵は常にポケット。
•宇多川 仁(46)
地下街 警備統括。閉鎖判断の実行権を握る現場の要。安全第一、でも硬すぎない。
•リン(19)
地下街の夜間清掃スタッフ。ポンプの軸受の唸りと潮の匂いで“逆流の足”を感じ取る“耳”。
•多々良 美波(35)
救急看護師(DMAT経験)。NICU搬送ルートの設計と現場統率に長ける。
情報・移動のネットワーク
•神代 砂羽(32)
ローカルFMパーソナリティ。平時は軽妙、非常時は即時・やさしい言葉で情報ハブに。
•樋口 透(41)
タクシー配車オペ。ドライバー群のリアルタイム路面情報を束ねて“人力ナウキャスト”を支える。
•吉永 駿(28)
配達ライダー。裏路地と冠水ショートカットに詳しい。雨の夜も走る。矢羽の運び手。
•中園 乙葉(21)
大学気象研。ナウキャスト×街区メッシュの可視化で支援。ドライに見えて熱い。
キーパーソン/対立の種
•松永 茂(70)
堤防見回りの元ボランティア。右=重い水/左=軽い風の“耳”。昔の水害を身体で覚えている。
•鷺沼 旭(45)
民間危機コンサル。誤誘導の疑いを一身に受けるが、真相は別に。
•中洲 玲(29)
アフィ運営者。バズ狙いの偽避難図を拡散し混乱を増幅。
•早瀬 詩織(享年)
綾芽の母。元・市技術職。数年前の判断の真相と、“雨路の矢羽テープ”の由来が物語の核。
•“港の夜警”
危機管理課に手描きの避難図メールを送る差出人。単独か、複数か。
⸻
用語解説(物語に出てくる“わかりにくい言葉”)
•線状降水帯
同じ場所に次々と積乱雲が生まれて雨の帯になる現象。長時間の大雨をもたらす。
•バックビルディング
雨雲が後ろから次々補給されて帯が居座るメカニズム。予報円の外で“生まれ直す”のが厄介。
•内水氾濫/外水氾濫
内水は街の排水が間に合わずあふれる水害、外水は川や海があふれて逆流する水害。物語は両方が絡む。
•潮止め水門
海側からの満潮の逆流を防ぐゲート。開閉の判断が遅れても早すぎても被害が出る“秒の世界”。
•逆止弁(フラップゲート)
水や空気の逆流を防ぐ弁。正しく閉じないと地下街へ水が入りやすい。
•合流式下水道
雨水と汚水を同じ管で流す方式。短時間に雨が集中すると許容量を超えやすい。
•ナウキャスト
直近数時間の超短時間予報。本作では「人の観測」と重ねて**“人力ナウキャスト”**を作る。
•Lアラート
行政の防災情報を一斉配信する仕組み。作品内では、ローカルFMや配車網と併走させる。
•可搬ポンプ
移動式の水を汲み上げる機械。唸りの音色が“負荷”や“逆流”の手がかりになる。
•雨路(あまじ)
雨の流れが自然と選ぶ低い道/人の動線のこと。物語の象徴として、見えない堤を導く概念名。
•矢羽(やばね)
手描きの矢印サイン。迷う人の足を短く・確実に動かすための“人が渡せる長さ”。
•見えない堤
人の声・手・段取りで築く目に見えない堤防。掲示や放送、手話、合図の連鎖がその正体。
•耳のネットワーク
水音・風音・機械音をそれぞれの**“耳”で拾い合う連携**。FM・配車・ボランティアが線でつながる。
•一時閉鎖(先行閉鎖)
あえて地下街などを早めに閉じて人の流れを安全側へ逃がす判断。止めないで止めさせるの実装。
•偽避難図
バズ目的で作られた誤った経路図。本作では“正しい矢羽”と対置され、見分け方も語られる。
•港の夜警
危機管理課に届く手描き避難図メールの差出人名。実在の個人か、複数の手かが謎の焦点。
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