最後の手紙 〜タマの遺言〜

奈良まさや

第1話

序章:老猫の奇跡

僕の名前はタマ。磯野家で、その生涯を穏やかに終えようとしている老いた猫だ。

腎臓の病は僕の体を蝕み、日ごとに衰えていくのを感じる。まどろむ時間が増え、かつては軽やかだった足取りも、今は重い。これが、僕に与えられた時間の終わりなのだろう。そう思っていた、ある朝のことだった。

目が覚めると、僕の体には奇妙な変化が起きていた。いつものように前足で砂を掘ろうとしたとき、その足の動きは、僕の意図を超えて流麗な文字を砂の上に描いたのだ。

『おはよう』

それは、まるで熟練した書道家が筆を走らせたかのような、完璧な日本語だった。

「おい、タマが字を書いてるぞ!しかもすげぇ上手い!」

カツオの叫び声に、家族全員が駆け寄ってきた。皆が驚きに目を見張る中、僕は少し照れながら、もう一度、慎重に文字を綴った。

『今日もよろしくお願いします』

完璧な楷書体。この突然の才能は、僕の終わろうとしていた人生に、新しい意味を与えた。これは、きっと運命なのだろう。


第一章:運命の出会いと、その後の葛藤

僕が磯野家の一員になったのは、雨が降りしきる、肌寒い日だった。段ボール箱の中で震えていた僕を見つけてくれたのは、まだ幼かったワカメ。

「お父さん、この子猫、すごく弱ってるの!」

波平さんの反対を、ワカメは小さな体で受け止めた。雨に濡れた僕を抱きしめ、涙ながらに訴える彼女のひたむきな姿に、頑なだった波平さんも、やがて折れた。

「一週間だけだぞ」

そうして始まった「一週間」は、僕にとっての「一生」となった。

この温かい家庭で、僕は普通の猫の倍以上の時間を生きることができた。腹を空かせることもなく、冷たい雨に打たれることもなく、ただただ、家族の深い愛情に包まれて。しかし、その幸福な日々の陰で、僕の心には、ある種の葛藤が芽生えていた。

この安穏な日々は、本当に僕だけのものなのだろうか。

同胞たちの多くが、僕のように恵まれた生涯を送ることはない。短く、過酷な命を、雨や飢えに怯えながら終えていく。そのことを思うたび、僕は、どこか後ろめたい気持ちに苛まれた。


第二章:最後の家族写真、そして決意

僕の体力が尽きようとしている今、僕は突然得たこの不思議な才能を、家族への感謝を伝えるために使おうと決めた。

砂場に、僕の命の最後の輝きを込めて、一文字ずつ丁寧に文字を刻んでいく。

波平さんへ

いつもお疲れ様です。頭の毛、三本あるの、知ってました。膝の上の午後のひととき、最高でした。

フネさんへ

料理上手で尊敬してます。たまに台所で一人で踊ってるの、見てました。可愛かったです。

サザエさんへ

声が大きくてびっくりしたけど、その明るさに何度も救われました。夫婦漫才、いつも楽しく拝見してました。

マスオさんへ

いつも穏やかで、僕の体調を気遣ってくれてありがとう。たまに一人でため息ついてるのも、見てました。

カツオくんへ

僕の字を最初に発見してくれてありがとう。君の悪戯は大変だったけど、楽しかった。宿題、もっと真面目にやりなさい。

ワカメちゃんへ

僕を拾ってくれて、本当にありがとう。君の優しさが、僕の人生を変えた。ところで、階段を上る時、パンツ見えてるよ。

タラちゃんへ

「タマー!」って呼んでくれる声が大好きでした。君の笑顔が僕の元気の源でした。いつまでも純粋な心を忘れないで。

手紙を書き終えた僕は、最後の力を振り絞って、もう一つのお願いを綴った。

『みんなで写真を撮りませんか』

僕の言葉に、家族全員が集まってきた。波平さんの優しい声が、僕の耳に響く。

「タマがそう言うなら」

フネさんがカメラを持ってきて、皆が僕を囲んだ。僕はその真ん中に座り、心の底から幸せを感じていた。この、温かい光に包まれた一瞬を、僕は永遠に覚えておきたい。

それが、僕たちの最後の家族写真になるだろう。


第三章:身元を隠すという覚悟

写真撮影の後、僕は一つの大きな決断をした。

このまま安らかに死を待つのではなく、残された力を、僕と同じように孤独に生きる同胞たちのために使いたい。

この素晴らしい才能は、僕だけのものではない。生きたくても生きられなかった、数多くの仲間のために与えられたものに違いない。

しかし、磯野家の猫として、人々の注目を浴びることは、家族に迷惑をかけることになる。僕は覚悟を決めた。鋭い石を手に取り、自らの額に、深く、傷をつけた。

血が流れ、激しい痛みが走る。でも、これでいい。もう、僕は磯野家のタマではない。どこにでもいる、名もなき一匹の野良猫だ。

ごめんね、みんな。これは僕がしなければならないことなんだ。


最終章:最後の使命と、安らかな旅立ち

その夜から、僕の最後の活動が始まった。

公園で震えている子猫を見つければ、近くの家の前に美しい文字で訴えた。『どうか、この子に温かい家庭を』と。ゴミ箱を漁る野良猫を見つければ、動物愛護団体の前に文字を書いた。『この子たちに愛の手を』と。

僕の美しい文字に驚き、多くの人々が行動を起こしてくれた。僕の使命感は、弱りゆく体を突き動かした。生きたくても生きられなかった仲間たちの分まで、僕は必死に活動した。

そして、数日間の活動で、僕の体力は完全に尽きた。

最後に向かったのは、ワカメが僕を見つけてくれた、あの運命の場所。

僕は月明かりの下で静かに横たわった。体の痛みは、もう遠い記憶のようだ。視界も、次第にぼやけていく。

それでも、僕の心は、深い満足感で満たされていた。

恵まれた環境で、愛情に包まれて、普通の猫の倍以上の時間を生きることができた。そして、その愛で、新しい命を救うことができた。

ワカメちゃん、ありがとう。

磯野家のみんな、ありがとう。

生きたくても生きられなかった仲間たち、君たちの分まで愛をもらって生きたよ。そして、その愛で新しい命を救ったよ。

僕の目の前には、もう何も見えなくなっていた。

だが、不思議と、心の中には鮮明な光景が浮かんでいた。それは、皆が僕を囲んで、満面の笑みを浮かべていた、あの最後の家族写真。

一枚焼き増しをもらったのだ。

最後の悪戯を書き込んだ、「この中に浮気者がいます」。

あー、面白い時間だった。

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最後の手紙 〜タマの遺言〜 奈良まさや @masaya7174

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