八月十五日

@omuro1

第1話

夏の風が渦を巻き、古びた団地を抜けていく。

風が向かう先には、遠く霞む富士山が見えていた。


四階の一番西の部屋で、父は座椅子に深く沈み、タバコの灰がゆっくりと落ちる。

母は台所でインスタントラーメンを茹で、鍋の中には兄の食べ残しが漂っていた。

母は粉末スープの袋を口で開けると、もう空になった袋を、これでもかと指で弾いた。


居間のテレビが言うには、どこかの国の誰かが、何やら平和賞を巡って「自分こそが相応しい」と圧力をかけているらしい。

父はリモコンに手を伸ばすと、何を見るでもなくチャンネルを変え、音量は次第に下がっていった。


今日も兄は、早朝からどこかへ出かけ、いつも通り昼前に戻ってきた。

ガチャリと玄関を開ける音が響き、ドスドスと廊下を踏みしめる足音に空気が震える。

母は、冷蔵庫の扉が開いた音に背を向けたまま、横目で兄の様子をうかがっていた。


僕はベランダで猫を抱く。

「やっぱり外がいいか」

そう問いかけると、猫は何も言わず、僕の親指を噛んだ。


室外機の生ぬるい風が足元を撫でる。

夏の空気は、冬の寒さよりも厳しくなった。


猫が、短く「にゃっ」と鳴き、僕の腕の中でぐるぐると回る。

それでも猫は、僕から降りようとはしなかった。

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