第4話 快適な暮らし
「今夜は私のところに泊まって。空いている部屋があるので遠慮しなくていいのよ」
「でも、そんなにお世話になる訳には……」
無一文の奈央だったが、今日初めて会った人のところに泊めてもらうのはいくら何でも厚かましいと思い、英子の申し出を断ろうとした。
「実はお願いがあるのよ。映美を通わせている保育園とトラブルがあって、転園を考えているのだけれど、新しい保育園が決まるまで、映美の面倒を見てもらえないかと思って。そうしてもらえたらとても助かるのだけれど、駄目かしら?」
奈央がかなりのお人好しだと感じた英子は、情に訴えることにした。
「私でよろしければ、恵美ちゃんのお世話をさせてください」
こうして、英子の策略通り、奈央と颯士親子を家に連れ帰ることに成功した。
英子が借りているのは2LDKのファミリー向けマンションで、6畳の和室が余っている。映美を出産した直後はここに布団を敷いて、恵美と並んで寝ていたので、布団も二組揃っている。
奈央親子をしばらく泊めるのに支障は何もなかった。
こうして数日奈央と暮らしてみると、英子はその快適さに驚いた。育児経験のある奈央の助言はとても的確だった。広い婚家の家事を一手に担っていた奈央は手際が良い。颯士も三歳児にしてはしっかりして、映美をとても可愛がってくれている。
英子はたった一人で子育てをしなければと、肩に力が入っていたのだろう。初めて人に頼ることができ、肩の荷を下ろせたような気がした。
「夫さんと離婚することでいいのですね」
奈央が落ち着いてきたので、英子は離婚の意思を確認した。
「はい。剛士さんとは離婚したいと思います」
奈央は迷うことなく返事した。颯士を出産してからほとんど外出もせず、育児と家事に明け暮れ疲弊しきっていた奈央の心は、英子との暮らしで癒されていく。そして、今後のことを考えられるようになっていた。奈央にとっても、英子親子との暮らしはとても快適だったのだ。
奈央の意思を受け、英子は離婚の協議に入った。少し離れた場所にある民間一時保育所に颯士と映美を預け、奈央と共に谷山家を訪れた。その際、奈央には不思議な力がないことがわかり、英子はがっかりする。奈央の近くにいるのは簡単だと英子は考えていた。なるべく好条件の雇用をして、辞められたら困ると情に訴えていれば奈央は離れて行かないだろう。しかし、これから成長する颯士を繋ぎ止めるのは難しいと英子は思っている。
それでも、映美がある程度成長するまでは、心の声が聞こえない静かな生活をさせてやれる。自分の幼少期と比べると、とても幸せなことだと英子は思った。
「颯士は俺の子でない。だから、養育費や慰謝料など払う必要はない」
奈央の夫である剛士は離婚には応じるが、慰謝料と養育費の支払いは拒否した。農家の谷山家はかなり広い土地を持っており、その一部をスーパーマーケットに貸し賃料も得ているので、支払い能力に問題はないことを英子は把握している。
「DNA鑑定はしましたか? それに剛士さんの不倫が離婚の原因なので、慰謝料は発生しますね」
「そ、それは…… 誰が見ても颯士は俺の子じゃないだろう! 先に不倫したのは奈央だ」
英子の問いに怒鳴る剛士。だが英子は剛士の心が読める。剛士は知っていた。奈央は結婚当初から農業の手伝いと家事で、不倫する間などなかったことを。
「私が働いて颯士を育てるので、もういいんです」
ずっと俯いていた奈央が小さな声でそう言った。颯士を出産してから剛士に怒鳴られ続けていて、奈央は支配状態に置かれていた。奈央としては一刻も早くここから逃げ出したいと思っている。
「ずっと颯士君を家に閉じ込めていたようですね。幼児の健やかな成長を阻害する行為です。幼児虐待で裁かれるかもしれませんね」
一瞬で剛士の顔が青くなる。警察沙汰になれば、近所の評判が地に落ちる。土地持ちの農家なので、逃げ出すこともできない。ずっとこの地で生活しなければならないのだ。
「颯士君のこれからの健やかな成長のため養育費を払ってはどうでしょうか? そちらも長期にごたごたするのは嫌でしょうから、一時金で七百万円。颯士君が二十二歳になるまで月に三万円ほどになる計算です。相場よりもかなり安い金額ですよ」
弁護士としては、もっと引き出せると思ったが、あまり高額なお金を受け取ってしまえば奈央が離れてしまう危険がある。ここら辺が落としどころかと英子は計算していた。
剛士はすぐに同意した。こうして、颯士が剛士の子かあやふやなまま、無事離婚が成立したのだった。
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