畏怖~没儀島百鬼夜行伝~
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畏怖~没儀島百鬼夜行伝~
第一章:禁忌の島と猫の偶像
本土と島を結ぶ定期船のデッキは、纏わりつくような熱と湿気をはらんだ潮風に満ちていた。猫屋敷美佳は、その風に燃えるような赤髪をなびかせながら、水平線の向こうに陽炎のように滲む島の影を、分厚いレンズのサングラス越しに捉えていた。八月の強い日差しが、彼女の白い肌をじりじりと焼く。
彼女の髪は、頭頂部で巧みに、そして挑発的に結い上げられ、しなやかな黒猫の耳を模している。そのスタイルは、彼女が生きるもう一つの世界の象徴だ。身体のラインにぴったりと沿うパンキッシュな黒いシャツには、月夜に牙を剥く猫の刺繍が銀糸で施され、汗でわずかに肌に張り付いていた。ひらりと舞う丈の短いフレアスカートの下では、猫のシルエットが浮かぶ網タイツが、鍛え上げられた脚線美を妖しくなぞる。ごつりとした厚底のサンダルが、錆びついた甲板を一歩ごとに確かな存在感をもって踏みしめていた。
彼女の表向きの職業は、地下アイドル。ステージネームは「にゃあやしゃ」。都会の片隅、酸素の薄い薄暗いライブハウスの熱狂の中で、彼女は計算され尽くした笑顔と、媚びるような猫語を振りまく偶像(アイドル)を完璧に演じている。それは彼女にとって、息をするのと同じくらい簡単な、しかし息苦しい仮面だった。
だが、その仮面の下に隠された素顔は、全くの別物だ。幼少期から自己防衛のために父親に叩き込まれた各種格闘技の冴えは、今や彼女の血肉となっている。そして、物事の本質を冷徹に見抜く観察眼。彼女の魂を真に震わせるのは、ステージを揺るがすオーディエンスの熱狂ではない。日本各地の片隅で、誰にも知られず忘れ去られようとしている怪異の伝承。それを蒐集し、自身のウェブサイト『カケヤヨメヤ』に「ケミネコ」のハンドルネームで記録することこそが、彼女のライフワークであり、生きる意味そのものだった。
「――次の目的地は、没儀島(もぎじま)。これは期待できそうね」
クーラーの効いた船室に戻り、ノートパソコンを起動しながら呟く声は、ステージ上の甘ったるい猫なで声とは似ても似つかぬ、落ち着いたアルトだった。この島には、本土ではとうに失われた独自の妖怪伝承が、まるで生きた化石のように息づいているという。彼女のしなやかな指が、数週間かけて集めた島の伝承リストを画面上でなぞった。
『臭臭芸無(しゅうしゅうげいむ)』『不酢歩痴(ぶすほち)』『土人形(つちにんぎょう)』『口窄(くちすぼめ)』……。奇妙で、どこか滑稽ですらある名前の羅列。だが、その裏に潜む土着の闇の濃厚な気配に、美佳の口元は自然と吊り上がった。これは、本物だ。
船が港に着くと、むわりとした熱気が美佳を包んだ。島の唯一の民宿「宝来荘」の古びた木の匂いは、しかし、美佳を不思議と落ち着かせた。日焼けした人の良さそうな女将に案内された二階の角部屋は、質素だが隅々まで清潔に保たれている。荷を解き、パンキッシュな戦闘服からラフなTシャツとショートパンツに着替えて窓を開けると、都会では決して感じることのできない、濃い緑と土、そして潮の香りが一斉に流れ込んできた。一息ついた頃、階下から夕食の呼び声がかかった。
食堂の隅の席で、島で獲れた魚の煮付けや見慣れない海藻の和え物が並んだ膳を前にしていると、背後から弾んだ声が聞こえた。
「あのっ……もしかして、にゃあやしゃさん、ですか!?」
振り返ると、そこにいたのは快活そうな少年だった。歳は十歳ほどか。少し癖のある黒髪が溌剌と跳ね、大きな瞳は純粋な好奇心でキラキラと輝いている。日に焼けたTシャツには、少しマニアックなレトロゲームのキャラクターがプリントされている。名を海斗という彼は、夏休みを利用して祖父母の家へ帰省中なのだと、息を弾ませながら言った。
「にゃーん! そうですにゃ! よく分かったにゃあ!」
美佳は瞬時にプロの仮面を被り、完璧なアイドルスマイルを向けた。海斗は頬を真っ赤に染め、大事そうに抱えていたアイドル雑誌を差し出す。
「サインください! オレ、この前のライブも行ったんです! すごくカッコよかった!」
「にゃーんて嬉しいことを! もちろんだにゃあ!」
サインを書きながら、美佳は彼との会話を楽しんだ。だが、話が彼の祖父母の家に及んだ時、その場の空気がわずかに、しかし確実に変わった。
「この島、ちょっと変なんだ。オレんち、おじいちゃんの家なんだけどさ、二階の一番奥の部屋、絶対に入っちゃダメだって言われてるんだ」
「へえ? どうしてだにゃ?」美佳は猫語を崩さず、しかし探るような視線を向けた。
「わかんない。でも、父さんも母さんも、その話になるとすっごく怖い顔する。夜中に、中から壁をガリガリ引っ掻くみたいな音が聞こえることもあるし……」
美佳の脳裏に、資料にあった一つの記述がよぎる。彼女はさりげなく尋ねた。
「……変な匂いとかは、しないのかにゃ?」
「え!? なんで知ってるの!? そうなんだよ! なんか、こう……魚が腐ったみたいな、ひどい匂いがするんだ!」
美佳の背筋を、冷たいものが走り抜けた。偶然にしては、出来過ぎている。
ここで美佳は一つの疑問を口にした。「それで君、なんでじいちゃん家に泊まらないで、民宿なんかにいるの?」
「ああ、それね」海斗は少し照れたように頭を掻いた。
「じいちゃん家、今ちょっとだけ改築しててさ。だから夏休みの間、両親は仕事で本土に戻ってて、オレだけ宝来荘の女将さんに預かってもらってるんだ。女将さん、じいちゃんの遠い親戚なんだって」
なるほど、と美佳は納得した。だから昼間からこの民宿にいたのか。
膳を下げに来たのは、昼間受付で見かけた儚げな少女、宝神文音だった。長く艶やかな黒髪は、その美しさとは裏腹に手入れが行き届かず、白い肌は不健康なまでに透き通っている。大きな瞳は、美佳と海斗の弾んだ会話を聞いていたのか、不安と羨望が入り混じったような色を浮かべて揺れていた。彼女は美佳の派手な容姿と、海斗との親しげな様子に気圧されているのか、一言も発さず、ただ深く頭を下げると、食器を載せたお盆を胸に抱き、逃げるように厨房へと消えていった。その痩せた肩と俯いた横顔に、美佳はこの島を覆う、見えざる檻の重さを直感した。
第二章:囁く怪異と閉ざされた心
その夜から、美佳の周囲で怪異はより明確な輪郭を持ち始めた。
部屋でノートパソコンに向かい、『ケミネコ』としてサイトの更新作業をしていると、ふっと、あの獣の腐臭が鼻をついた。窓を開けても、そこには静かな夜の香りが広がるだけ。気のせいか、と作業に戻ると、今度は廊下を何かが引きずるような、重く湿った音が聞こえる。すっと立ち上がり、音を立てずにドアを開けて廊下を覗いたが、きしむ床が自分の体重を訴える以外、何の気配もなかった。
「……焦らすのが好きなタイプか」
美佳は呟き、PCの画面に視線を戻した。だが、一度乱された集中力はなかなか戻らない。眠りにつこうと布団に入っても、今度は壁の向こうから、ぴちゃり、ぴちゃりと水気を含んだ音が断続的に聞こえてくる。まるで、誰かが粘着質な手で壁を叩いているかのようだ。
翌朝、壁を確認すると、そこには昨日よりも明らかに濃くなった、鼻くそを塗り付けたような気味の悪い染みが、直径30センチほどにわたって広がっていた。『不酢歩痴』。自分を悪く言った者の家に現れるという、陰湿な妖怪。
「……別に、悪口言ったつもりはないんだけどにゃあ」
軽口を叩きつつも、美佳はこれが単なる悪戯ではないことを理解していた。これは警告だ。この島の深淵に、これ以上近づくな、と。
さらに、洗面所で顔を洗おうとした美佳は、鏡に映った自分の顔に異変を感じて息をのんだ。唇が、まるで糸で縫い合わされたかのように、きつくすぼまっている。声を出そうとしても、うまく発音できない。
「(う……ぷ……)」
『口窄』。島の秘密を外部の者に語ろうとすると現れ、その口を塞いでしまうという。昨夜、海斗に島のことを尋ねたのが原因か。美佳は舌打ちし、懐から清めの塩を取り出すと、それで唇を拭った。じわりと熱を感じた後、唇は元の感覚を取り戻した。これは、想像以上に厄介な土地のようだ。
二日目の昼食時、美佳は食堂で再び海斗と顔を合わせた。文音が運んできた冷やしうどんを前に、海斗は目を輝かせていた。
「ねえねえ、美佳さん! 東京ってどんなとこ? やっぱすごい人? ライブの時、どうやってあんなに高くジャンプするの?」
「にゃーん、それは企業秘密ですにゃ!」
美佳がアイドルモードで応じると、海斗は楽しそうに笑う。その傍らで、文音はお茶を注ぎながら、戸惑ったように、しかしどこか羨ましそうに二人を見ていた。
「文音さんも、一緒に食べないか?」
美佳が不意に声をかけると、文音はビクリと肩を震わせた。
「い、いえ、私は仕事が……」
「いいからいいから。女将さんにはアタシから言っとく。な、海斗?」
「うん! 文音姉ちゃんも一緒に食べようよ!」
海斗にまで促され、文音は断り切れずにおずおずと席に着いた。三人の、ぎこちない昼食が始まった。初めは俯いてばかりいた文音も、海斗の屈託のない話と、時折向けられる美佳の優しい視線に、少しずつ顔を上げるようになっていった。
「……文音さんは、ずっとこの島に?」美佳が尋ねる。
「……はい」
「都会に、行きたいとか思ったことは?」
その言葉に、文音の瞳が大きく揺れた。そして、何かを諦めたように小さく首を振った。
「私には……無理ですから」
その一言に込められた絶望の深さに、美佳はそれ以上何も言えなかった。
その日の午後、美佳は気分転換と調査を兼ねて島の裏手にある小さな砂浜を訪れた。そこで再び、一人で膝を抱えて海を見つめる文音の姿を見つける。今度は声をかけず、少し離れた場所に腰を下ろし、ただ静かに同じ景色を眺めた。寄せては返す波の音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。
やがて、しびれを切らしたように文音が口を開いた。
「……あの……何か、ご用ですか?」
「いや、別に。ただのサボり」
美佳はサングラスを少しずらし、悪戯っぽく笑った。その気負いのない態度に、文音の肩から少しだけ力が抜ける。
「隣、いいか?」
美佳が隣に腰を下ろすと、文音は戸惑いながらも小さく頷いた。
「この島、息苦しいな。アンタ、ずっとここにいるのか?」
その声は、アイドルの甘さも、ファイターの鋭さもない、ただ穏やかで優しい、素の彼女の声だった。文音は驚いて美佳の顔を見つめた。サングラスの奥の瞳が、静かに自分を見つめている。その視線に射抜かれ、文音は堰を切ったように言葉をこぼし始めた。
「……私は……ここから出られないんです。浜神家の分家というだけで、島の人間は私を遠巻きにする……。学校でも、ずっと一人でした。誰も、私と話そうとはしてくれませんでした」
「……そうか」
「あなたみたいに……強くないから。自分の意見を言ったり、誰かに逆らったりなんて、できたことがありません。ただ、嵐が過ぎるのを待つように、息を殺して生きてきただけなんです」
美佳は何も言わず、ただ黙って隣に座り続けた。だが、その沈黙は、どんな慰めの言葉よりも文音の心を温めた。この派手な格好をした人は、自分の孤独と弱さを、ただ静かに受け止めてくれている。文音の胸に、今まで感じたことのない、温かい感情が芽生え始めていた。美佳の横顔を盗み見ながら、その燃えるような髪の色が、夕日に照らされて綺麗だと、場違いにもそう思った。
穏やかな時間は、しかし長くは続かなかった。美佳のスマートフォンがけたたましい着信音を発した。海斗からだった。
「美佳さん! 大変だ、来てくれ! じいちゃん家の、あの部屋の匂いが、家中にしてるんだ! それに……扉の向こうから声が……『ちょうてん』……『つうかい』って、ずっと……!」
電話の向こうで、海斗は恐怖に泣きじゃくっていた。
美佳の表情が険しくなる。文音もまた、血の気を失くした顔で美佳を見つめていた。
「……行くぞ、文音。アンタも、もう逃げるのは終わりだ」
美佳は立ち上がった。その瞳には、恐怖を通り越した、怒りの炎が燃え盛っていた。
第三章:亜閉汚法と百鬼との契約
海斗の祖父母の家は、島の禁忌が凝縮されたような、よどんだ空気に満ちていた。三人が駆けつけると、家の外まであの腐臭が漏れ出している。
「……これは、本格的にヤバいな」
美佳の言葉に、文音が震える声で口を開いた。
「……浜神家の、私的な記録が、村役場の資料室の、奥に……」
「何だって? なぜそれを早く言わない!」
「ご、ごめんなさい……! でも、あれは、見たら呪われるって、島の皆が……!」
「今さら呪いの一つや二つ、どうってことないだろ!」
美佳は文音の手を掴むと、再び役場へと駆け出した。その力強い感触に、文音はなぜか涙が出そうになった。
埃っぽい資料室の奥、文音の記憶を頼りに見つけ出した浜神家の私的な記録書には、「亜閉汚法」の恐るべき真実が、おぞましいほどの筆致で記されていた。
この島を狂信的な思想で支配する浜神家当主、浜神辰臣。彼の力の源泉こそ、炎の怪物「肉焼き」を介した、恐怖による支配。そして、その儀式のために、赤子の頃に攫われ、憎悪と他責の念だけを刷り込まれて育てられた「業人」の存在。
「ひどすぎる……そんなのって、あんまりだ……」
海斗は唇を噛み締め、小さな拳を握りしめていた。
「ああ、全くだ。だが、感傷に浸ってる暇はにゃい。儀式の夜は、三日後の満月。その前に、業人を解放する」
美佳の言葉に、二人は息を呑んだ。それは、島を支配する浜神家への、完全な宣戦布告を意味していた。
作戦決行まで、残された時間は少ない。その夜、三人は宝来荘の一室に集まり、作戦を練った。正面から挑んでも勝ち目はない。
「こういう時は、郷に入っては郷に従え、だ。この島のルールで戦ってやる」
美佳はニヤリと笑うと、懐からメモ帳を取り出した。そこには、彼女が調べ上げた島の妖怪たちの性質と、その「交渉方法」がびっしりと書き込まれていた。
「まずは情報収集だ。浜神の奴らが何を企んでるか、もっと詳しく知る必要がある」
美佳が指さしたのは、『耳寄り(みみより)』。壁や床に耳を当てると、遠くの会話が聞こえるという妖怪。
「こいつは、古い井戸に住み着いてるらしい。寂しがり屋で、誰かが語りかけてくれるのを待ってるんだとか」
翌日、三人は島の外れにある、苔むした古井戸へと向かった。井戸に向かって、美佳はこれまでの経緯を、海斗は東京での暮らしを、文音は島の伝説を、それぞれ語り聞かせた。すると、井戸の底から微かな風が吹き上がり、頭の中に直接、様々な声が流れ込んできた。『辰臣様、儀式の準備は万端に…』『本土から来た小娘が嗅ぎまわっている…』『満月の夜、肉焼き様が…』。浜神家の企みは、美佳の予想以上に進行していた。
決戦前夜。美佳は本格的に「仲間」集めに乗り出した。まずは宿の部屋に現れた『不酢歩痴』。
「あいつは、自分を蔑ろにされるのが嫌いらしい。つまり、敬意を払えば、あるいは……」
美佳は三人で、染みが付けられた自室の壁の前に立った。古文書の記述に従い、島の浜で拾った丸い石で壁を三度撫で、清めた塩を一つまみ供える。
「この地に眠る、小さきものよ。我、汝の存在を認め、敬意を表す。どうか我らの非礼を許し、力を貸し給え」
美佳が祝詞にも似た言葉を唱えると、壁の染みが生きているかのように蠢き、中から煙のような黒い影が現れ、一瞬だけ鋭い双眸をきらめかせると、すうっと消えた。部屋の隅に、感謝の印のように、黒光りする小さな石が一つ、置かれていた。
「交渉、成立だにゃあ」
美佳は、その石を大切にポケットにしまった。
次に目指すは、『臭臭芸無』。猟師の善意を裏切ったという、身勝手な猿の妖怪。
「あいつは人間を信用していない。供物だけじゃダメだ」
美佳は、伝承で猿が逃げ込んだとされる神社の裏山へと向かった。そこで、古文書に記された好物の腐りかけの果物を供え、ただひたすらに待った。三時間、四時間……月が中天に差し掛かった頃、闇の中から、毛の抜け落ちた、見るからにみすぼらしい猿が姿を現した。
猿は美佳を警戒し、キーキーと威嚇の声を上げる。美佳は動かず、静かに語りかけた。
「アンタを騙したりしない。アンタを利用するだけじゃない。アタシは、アンタと同じ、この島の理不尽に怒ってるだけだ。力を貸してくれ。アタシは、アンタを裏切ったあの猟師とは違う」
猿は、美佳の瞳をじっと見つめていた。その瞳の奥に、人間への不信と、長い孤独の寂しさが揺らめいているのを、美佳は見逃さなかった。やがて猿は、一度だけ大きく頷くと、供物の果物を一つ掴み、再び闇の中へと消えていった。
「……来て、くれるわね」
美佳は確信した。宿に戻ると、心配そうに待っていた文音と海斗が駆け寄ってきた。
「美佳さん、大丈夫でしたか!?」文音の声が震えている。
「ああ、問題ない」
ぶっきらぼうに答えつつも、自分のために夜更かしをしていた二人の存在が、美佳の心を温かくした。特に、文音の真剣な眼差しに、美佳は少しだけ気恥ずかしさを感じていた。
(女にそんな顔されたって、照れるだけだっつーの……)
素直になれない自分に内心で悪態をつきながら、彼女は決戦の時が近いことを感じていた。
その夜、美佳は眠れずにいた。脇腹の古傷が、湿気のせいか微かに痛む。そっと部屋を抜け出し、夜の浜辺へと向かった。すると、そこには先客がいた。文音だった。
「……眠れないのか?」
「美佳さん……。はい。なんだか、怖くて」
二人は並んで砂浜に座った。波の音だけが響く。
「なあ、文音」美佳が切り出した。
「アンタは、なんでアタシたちに協力してくれるんだ? 怖いなら、逃げたっていいんだぞ」
「逃げたくないんです」文音はきっぱりと言った。
「もう、逃げるのは嫌なんです。美佳さんと出会って、初めてそう思えました。あなたが、私に勇気をくれたんです」
まっすぐな瞳。美佳は気圧されて視線をそらした。
「……アンタのためじゃない。アタシはただ、自分の好奇心を満たしたいだけだ」
「それでも、いいんです」文音は微かに微笑んだ。
「私は、あなたについて行きたい」
その時、文音は思い切って自分の手を、美佳の手に重ねた。美佳の身体がびくりと震える。
「……っ!」
「ご、ごめんなさい! その……あなたの手が、冷たい気がして……」
慌てて手を引こうとする文音の手を、しかし美佳は、今度は自分から強く握り返した。
「……別に、嫌じゃない」
ぶっきらぼうな、しかし優しい声。二人はどちらからともなく見つめ合った。月の光が、文音の潤んだ瞳を照らし出す。そこに映る自分は、ひどく間の抜けた顔をしていた。美佳は、自分の心臓が柄にもなく高鳴っているのを感じていた。
第四章:業人の檻、悪漢の宴と束の間の絶望
いよいよ満月の夜。海斗の案内で、三人は再び彼の祖父母の家へと忍び込んだ。美佳が懐から黒い石――『不酢歩痴』の印を取り出すと、家の周囲に潜んでいた浜神家の見張り役たちが、突如として腹を押さえて呻き始めた。見えない何かに、悪戯をされているかのようだ。
その隙に、三人は二階の「開かずの間」へとたどり着く。扉を覆うお札は、以前よりも禍々しい気を放っていた。
扉を開けた瞬間、凄まじい悪臭と怨念の奔流が三人を襲う。
鉄格子の檻の中、「業人」はそこにいた。
「おほっ……おほほ……来た、来た、オラのガチ恋……オラに尽くしやがれ……」
虚ろな瞳で三人を捉え、意味不明の妄言をぶつぶつと呟く。その姿は、哀れを通り越して、ただただ不気味だった。
「……これが、人の手で造られた地獄か」
美佳が歯噛みした、その時だった。
「そこまでだ、ドブネズミどもが!」
背後から、野太い声が響いた。浜神辰臣。そして、彼の配下である十数人の悪漢たちが、下卑た笑みを浮かべて三人を囲んでいた。
「小娘、貴様が嗅ぎまわっているのは分かっていた。だが、まさかここまでたどり着くとはな。褒めてやろう」
辰臣は冷たく言い放つ。
「てめぇこそ、趣味の悪い人形遊びも大概にしやがれ!」
美佳が言い返すも、多勢に無勢。悪漢たちが一斉に襲い掛かってくる。
「海斗、文音! そいつを檻から出せ! アタシが時間を稼ぐ!」
美佳の身体が躍動する。しなやかな蹴りが、回し蹴りが、男たちの急所を的確に撃ち抜いていく。だが、相手の数が多い。じりじりと追い詰められていく。
海斗と文音は、必死で檻の錠を壊そうとする。だが、錠は頑丈で、びくともしない。
「くそっ!」
美佳が一瞬体勢を崩した隙を、一人の悪漢が見逃さなかった。その凶刃が、美佳の脇腹を浅く切り裂く。
「きゃあっ!」
文音が悲鳴を上げた。美佳のシャツが、じわりと赤く染まる。
その光景に、文音の中で何かが切れた。彼女は、近くにあった燭台を掴むと、力の限り悪漢に殴りかかった。
「この人に……指一本、触れないで!」
儚げな少女の、魂の絶叫。それは、美佳の心に火を灯した。
「……上等だ。てめぇら全員、後悔させてやる」
美佳の瞳が、血のように赤く輝いた。その後のことは、海斗も文音も、よく覚えていない。ただ、嵐のような美佳の動きと、悪漢たちの断末魔だけが、悪夢のように記憶に残っている。
だが、奮闘も虚しく、三人は数の力に押し切られ、捕らえられてしまった。「業人」は、浜神家の者たちによって、儀式の祭壇へと厳かに運ばれていった。
「ハハハ! 満月の光が天頂に達する時が楽しみだな、小娘ども。貴様らには、我が一族の栄光の復活を、特等席で見せてやろう!」
辰臣の高笑いが響く中、美佳、文音、海斗は家の地下にある薄暗い土牢へと放り込まれた。重い鉄格子が閉められ、完全な闇と絶望が三人を包んだ。
「……くそっ、ここまでか」
脇腹の痛みに耐えながら、美佳は壁に背を預けた。暗闇の中、文音の嗚咽が聞こえる。
「ごめんなさい……私のせいで……私がもっとしっかりしていれば……」
「アンタのせいじゃねえよ」美佳はぶっきらぼうに言った。
「でも……美佳さんが、私のせいで怪我を……」
その時、暗闇に慣れた美佳の目が、きらりと光る何かを捉えた。自分のポケットからこぼれ落ちた、『不酢歩痴』と契約した黒い石だった。美佳は静かにそれを拾い上げ、隣で震える文音の手に握らせた。
「……諦めるのはまだ早い。アタシの仲間は、まだ残ってる」
美佳は牢の隅に転がっていた小石を拾うと、古文書にあったもう一つのまじないを思い出しながら、壁を三度、軽く叩いた。そして、囁く。
「小さきものよ、聞こえるか。契約に従い、我らをここから解き放て」
すると、壁の向こうから、コツン、と小さな返事のような音がした。やがて、鉄格子の鍵穴のあたりで、カチャカチャと金属音が響き始める。見えない何かが、鍵をいじっているのだ。辰臣の手下たちが儀式に気を取られている今が、好機だった。
数分後、ガチャリ、という音と共に、牢の扉が静かに開いた。
「……よし、行くぞ。今度こそ、終わりにしてやる」
美佳の瞳に、再び闘志の炎が宿った。
第五章:百鬼夜行と炎の鎮魂歌
満月の光が、浜神神社の境内を青白く、不気味に照らし出していた。本殿では、浜神辰臣が厳かに祝詞を唱え、その周りを生き残った配下たちが固めている。彼らの目には狂信の色が浮かび、これから行われる神聖な儀式に陶酔していた。
祭壇の上には、鉄の枷で磔にされた「業人」が、虚ろな目で宙を見つめ、相変わらず意味不明の言葉を呟いている。
その頃、神社の裏手から、脱出した美佳たちが最後の作戦準備を進めていた。
「いいか、作戦はこうだ。まず『臭臭芸無』が陽動をかける。その隙にアタシたちが侵入し、祭壇を目指す。道中の邪魔は、『不酢歩痴』と、他の助っ人に任せる」
美佳の脇腹の傷は、文音が自分の服の袖を裂いて施した応急手当で、何とか血が止まっていた。その手当ての間、文音は涙ながらに美佳への想いを告げた。「死なないでください……あなたが死んだら、私……」。美佳はただ黙って、彼女の震える手を強く握り返した。その温もりが、今の彼女の力の源だった。(守ってやる。こいつも、この島の理不尽も、全部ひっくり返してやる)その決意に、もはや迷いはなかった。
「時間だにゃあ! 行くぞ、アタシの百鬼夜行!」
美佳の号令と共に、闇が動いた。山の奥から、凄まじい悪臭が嵐のように境内へと流れ込む。『臭臭芸無』の総攻撃だ。
「ぐえっ! なんだこの匂いは!?」
配下たちが悪臭に悶え、陣形が大きく乱れる。その隙を突き、美佳、海斗、文音の三人が境内へと躍り出た。
本殿へと続く石段で、残った悪漢たちが三人を迎え撃つ。
「行かせん!」
だが、彼らの足元がおぼつかない。見えない何かに足を取られ、次々と転倒していく。『不酢歩痴』の仕業だ。さらに、どこからともなく「オボシレ……オボシレ……」という不気味な声が響き渡り、悪漢たちの戦意を削いでいく。三人の話を聞いていた『土人形』も、作戦に参加していたのだ。
そして、闇の中から無数の小石が飛来し、悪漢たちに降り注ぐ。『石礫童子(いしつぶてわらし)』だ。海斗が昼間、神社の境内で見つけた小さな地蔵に、自分のおやつだったキャラメルを供えてお願いしていたのだ。少年の純粋な祈りが、新たな仲間を呼んだ。
ついに三人は本殿にたどり着いた。
「しぶといネズミどもめ……!」
浜神辰臣が、憎悪に満ちた目で美佳を睨みつけ、儀式用の短剣を振り上げる。
「させにゃい!」
美佳が辰臣に飛びかかり、最後の戦いが始まった。古武術の達人である辰臣と、美佳の実力は拮抗していた。
その間に、海斗と文音は祭壇に駆け寄り、「業人」を縛る枷を外そうと試みる。
「動くな、小娘!」
辰臣の腹心である男が、文音に掴みかかろうとした。その瞬間、これまで恐怖に震えていた海斗が、覚悟を決めた顔で男の足元にタックルした。
「文音さんを、いじめるな!」
少年の渾身の勇気。男が体勢を崩した隙に、文音は懐から取り出した古い石の鍵で、枷を破壊することに成功した。
だが、儀式はすでに最終段階へと入っていた。解放された「業人」の身体から、黒いオーラが噴出する。
「ハハハ! 遅かったな! 業人の魂は、すでに肉焼き様の器となったわ!」
辰臣が哄笑する。黒いオーラは、祭壇の上で渦を巻き、灼熱の炎の腕を持つ巨大な怪物の姿を成し始めた。「肉焼き」の不完全な顕現。その制御不能な力が、まず最も近くにいた者たちを襲った。
「ぎゃあああっ!」
辰臣の配下であった悪漢たちが、自ら呼び覚まそうとした炎にその身を焼かれ、断末魔の悲鳴と共に塵と化していく。自業自得の、惨めな末路だった。
肉焼きは、完全な魂を求め、解放された「業人」へとその炎の腕を伸ばす。
もはやこれまでか、と誰もが思った時、叫んだのは文音だった。
「ダメです!」
彼女は、「業人」と肉焼きの間に、そのか細い身を投げ出した。
「この人は、ただ……ただ、こうなるように作られただけなんです! 憎しみしか教わらなかったこの人の魂が、本当に穢れているなんて、誰が決められるんですか!」
文音は、祭壇に自らの手を置いた。その瞳には、恐怖はなく、ただ深い慈愛が湛えられていた。
「もし、誰かの魂が必要なら……この島でずっと、死んだように生きてきた私の魂では、ダメですか! どうか、この島を……これ以上、悲しい場所にはしないでください!」
彼女の魂からの叫び。それは、自己犠牲と、そして美佳への愛に満ちていた。
その瞬間、肉焼きの動きが止まった。古文書が記す、もう一つの伝承。『――されど、真に清き魂の捧げ物ありし時、肉焼きは怒りの炎を鎮め、守り神へと転ず――』。
肉焼きの禍々しい黒炎は、その色を浄化の光を放つ白銀へと変え、穏やかな光の粒子となって、文音の身体へと吸い込まれていった。気を失い倒れた文音の表情は、苦しみから解放されたように、安らかだった。
炎の怪物が消え、野望が潰えた浜神辰臣は、抜け殻のようにその場にへたり込んだ。夜明けの光が、静寂を取り戻した本殿を荘厳に照らし出していた。
終章:夜明けの船と誓いのキス
数日後。事件は公になり、浜神家の長きにわたる支配は終わった。「業人」は本土の専門施設に保護されたが、彼が人間らしい感情を取り戻すことは、ついになかったという。
船が出る前夜。美佳と文音は、あの夜と同じ浜辺にいた。脇腹の傷は、文音が見つけてきた不思議な泉の水のおかげで、驚くほどきれいに癒えていた。
「美佳さん……」
文音は、意を決したように切り出した。
「私、あなたが好きです。女の人を好きになるなんて、おかしいのかもしれない。でも、あなたがいたから、私は変われた。だから……私も、一緒に都会に行ってもいいですか? あなたのそばで、あなたの見る世界を、私も見たいんです」
その真摯な告白に、美佳は一瞬驚いた顔をしたが、やがて悪戯っぽく笑った。
「しょーがにゃいなー。アタシは結構だらしないからな、あんたが身の回りの世話、全部やれよ?」
そのぶっきらぼうな言葉に、文音の瞳から涙がこぼれた。
「はい……喜んで……」
「でもな、文音」美佳は真剣な表情になった。
「アタシの世界は、綺麗で楽しいだけじゃない。お前が思ってるより、ずっと面倒で、危険なことばっかりだ。それでも、いいのか?」
「はい」文音は力強く頷いた。
「あなたが一緒なら、何も怖くありません。でも……私が、あなたの足手まといになるだけかもしれません」
俯き、不安そうに唇を噛む文音を見て、美佳はたまらないというように息をついた。
「バーカ。お前はもう、アタシの片割れみてぇなもんだ。お前がいなきゃ、アタシも前に進めねぇよ」
美佳はそっと文音の頬に手を添え、こぼれ落ちる涙を親指で拭った。そして、ゆっくりと顔を近づけ、その震える唇に、自らの唇を重ねた。
それは、初めての、優しくて、少しだけしょっぱい味がするキスだった。
「これはおまじないだ。もう迷うな」
唇を離し、照れ隠しのようにそう言うと、美佳は文音を強く抱きしめた。文音も、しっかりと美佳の背中に腕を回した。夜明け前の静かな浜辺で、二人はようやく一つになった。
翌日、島の港は穏やかな賑わいを見せていた。
美佳と文音は、船のデッキから手を振っていた。隣には、ひと夏の冒険を越え、少年の顔つきから少しだけ精悍さを増した海斗がいる。彼はこの島に残り、夏休みの終わりまで祖父母と過ごすことになった。
「にゃあやしゃー! 文音さんのこと、絶対幸せにしろよなー!」
涙でぐしゃぐしゃの顔で叫ぶ海斗に、美佳は最高のアイドルスマイルで応えた。
「当たり前だにゃあ!」
その心の中では、別の言葉が響いていた。
(ありがとな、少年。お前は最高の相棒だったぜ)
没儀島が、夏の陽炎の中にゆっくりと遠ざかっていく。美佳の『ケミネコ』のページには、近々、新たな物語が追加されるだろう。それは、ただの伝承ではない。彼女自身が体験し、仲間と共に未来を掴んだ、畏怖と、そして愛の物語だ。
彼女たちの新たな旅立ちを祝うかのように、文音の服のポケットから、あの小さな『土人形』がこっそりと顔を覗かせ、無言で二人を見守っていた。
畏怖~没儀島百鬼夜行伝~ @zunpe
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