シーン6 失われた聖域

 ​金曜日の午後三時。宮沢茜は、入稿システムの最終確認画面で、深呼吸一つせずに「公開」ボタンをクリックした。その瞬間、一つの「物語」が完成し、世界に放たれた。


 ​数分後、「Junction NEWS」のトップページに、それは現れた。




​【涙腺崩壊】天国の妻へ……「ベンチの哲学者」が3年間、空に語り続けた愛の言葉


​(写真キャプション:夕暮れの公園のベンチで、優しく空を見上げる中島秀行氏。その横顔には、深い愛情が滲む)

[茜が撮影した、中島の横顔のベストショット。画像編集ソフトで夕焼けの色が強調され、ノスタルジックな雰囲気に仕上げられている]


 ​なぜ彼は、来る日も来る日も空に語りかけ続けたのか。SNSを賑わせた「ベンチの哲学者」こと中島秀行さん(68)。その沈黙の裏には、三年前に先立たれた最愛の妻・和子さんへの、あまりにも切ない愛の物語が隠されていた。


​「父を、どうか理解してあげてください」


 涙ながらにそう訴えたのは、娘の美咲さんだ。彼女は、父が守り続けた神聖な時間を、ただ静かに見守っていたのである。


​『空のあなたに届くと信じて、今日も語りかける』


 生前の妻と交わした「たくさん話を聞いてね」という最後の約束。彼は、その約束だけを胸に、今日も思い出のベンチに座る。これは、現代に遺された、最も純粋なラブストーリーだ。




 ​記事は、導火線に火がついたダイナマイトのような勢いで拡散した。


 ​編集部の壁に設置されたPVカウンターの数字は、もはや計測不能な速度で回転し、過去のあらゆる記録を瞬く間に更新していく。佐々木は「やったぞ!」と叫び、フロアのあちこちで歓声と拍手が沸き起こった。


 ​SNSは「感動」一色に染まった。Xのトレンドには「#ベンチの哲学者」が駆け上がり、タイムラインは涙の報告で埋め尽くされる。


​「電車で読んで号泣してしまった。周りの目が痛い。でも涙が止まらない。こんな愛、素敵すぎる。#ベンチの哲学者」


​「Junction NEWSの記事、読んだ。夫と二人でボロボロ泣いてる。当たり前の日常に感謝しなきゃなって思った。中島さん、ありがとう。#涙腺崩壊」


​「娘さんの『父を理解してあげてください』って言葉がまた泣ける。なんて素敵な家族なんだ……」


​「最近暗いニュースばっかりだったから、心が洗われた。日本中が涙してるだろこれ」


 ​感動の波は、Webの世界だけでは収まらなかった。週明けの昼下がり、テレビの情報番組がこぞってこの話題を取り上げる。


 ​茜がオフィスの休憩室で見ているワイドショーでは、神妙な顔つきの司会者が「今、日本中が注目する、ある愛の物語をご覧いただきましょう」と語り、再現VTRが始まった。


 ​柔らかな光、感傷的なピアノのBGM。若い俳優が演じる中島と和子が、公園のベンチで無邪気に笑い合っている。そして、老いた俳優が演じる現在の中島が、茜の脚色したセリフを、天に向かって慈しむように呟く。美咲役の女優は、取材クルー役の男たちに「父の愛を、分かってあげてください……!」と涙を流す。


 ​VTRが終わると、スタジオのタレントたちは皆、目を潤ませていた。元アイドルの一人は「本当に、愛の形って色々あるんですね…」と声を詰まらせ、コメンテーターのジャーナリストは「ネットメディアが、これほどまでに人の心を打つ深遠な物語を発掘したことに、驚きを禁じ得ませんね」と、したり顔で語った。


 ​茜は、その光景を、冷めたコーヒーを片手に、ただ静かに眺めていた。自分の書いた言葉が、俳優の口から語られ、日本中のお茶の間に届けられている。彼女の表情に感動の色はなく、あるのは、自分の作った製品が市場で完璧に受け入れられたことを確認した、職人のような、空虚な満足感だけだった。


 ◇


 ​記事が公開されてから、二週間が経った。蝉の声はいまだ衰えず、夏の太陽が西見中央公園の木々を濃い緑色に染め上げている。公園そのものは、何も変わっていないように見える。しかし、あのベンチだけは、全く別の場所に変貌していた。


 ​中島秀行がいつも座っていたベンチは、「聖地」になっていた。


​「ねえ、こっち向いて! もっと悲しそうな顔で!」


 ​若いカップルの女性が、ベンチに座る彼氏にスマートフォンを向けながら指示を出す。彼氏はわざとらしく空を見上げ、物憂げな表情を作って見せた。その隣では、大学のサークル仲間らしきグループが、代わる代わるベンチに座ってはしゃぎながら自撮りをしている。ベンチの足元には、誰が置いたのか、セロファンに包まれた数本のカーネーションが、夏の暑さに少しだけ萎びていた。


 ​彼らは皆、宮沢茜の書いた「物語」の登場人物になりきり、その感動的なシーンを自分たちのSNSにアップロードするために、ここに集まっているのだ。


 ​その喧騒を、少し離れたイチョウの木の陰から、一人の老人がじっと見つめていた。中島秀行だった。


 ​彼はただ、そこに立っている。かつて、妻と二人だけの、そして妻を亡くしてからは自分だけのものだった聖域が、見知らぬ人々の笑顔とシャッター音で埋め尽くされているのを、ただ見つめている。


 ​彼はもう、あの輪の中に入っていくことはできない。ベンチに近づけば、きっと誰かが気づくだろう。「あ、本物だ」と囁き、好奇の視線を向け、スマートフォンを構えるだろう。彼が妻と静かに対話するための場所は、もう世界のどこにも存在しなかった。聖域は、完全に失われたのだ。


 ​やがて中島は、ゆっくりと背を向けた。その喧騒に、思い出の場所に、別れを告げるように。


 ​カメラは、何も言わずに去っていく彼の、小さく寂しげな背中を、ただ遠くから静かに捉えている。

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