シーン5 手紙が語る真実

 ​中島の家から数ブロック離れた、遊具も錆びついた小さな児童公園。茜は、強い日差しを避けるように、大きな木の陰になったベンチに深く腰を下ろした。まるで聖遺物でも扱うかのように、ハンドバッグからリボンで束ねられた手紙の束を取り出す。


 ​周囲に誰もいないことを確認し、彼女は慎重に、解けるかどうかの瀬戸際で結ばれた水色のリボンをほどいた。一番上にあった封筒から、折り畳まれた薄い便箋を引き抜く。インクの色は長い年月を経て少し薄れていたが、そこに綴られた女性らしい丸みを帯びた文字は、今もはっきりと読むことができた。


 ​茜は一枚、また一枚と、まるで学術論文でも読むかのように無表情で手紙をめくっていく。それは、夫婦の他愛のない日常を切り取った、ささやかな記録の連続だった。


​「10月12日。秀行さんへ。今日は金木犀のいい香りがしましたね。あなたが仕事帰りに買ってきてくれた熱いお茶、とても美味しかったです。ありがとう」


​「4月8日。拝啓、あなた様。西見中央公園の桜が満開です。来年も、再来年も、あのベンチで一緒に見ましょうね。約束ですよ」


 ​「西見中央公園」。茜の指が、その単語をなぞる。やはり、あの場所だ。彼女はさらにページを読み進めていく。そして、ある一枚の便箋の上で、その指がぴたりと止まった。日付は、和子という差出人が亡くなる数ヶ月前のものだった。


​「……最近、少し疲れやすくてごめんなさいね。病院の帰り道、あなたが黙って手を握ってくれるのが、とても嬉しいです。昔からそう。あのベンチで、私のくだらないおしゃべりに静かに相槌を打ってくれるあなたの顔を見るのが、今も昔も、私の一番の幸せよ。だから、これからもたくさん、たくさん話を聞いてね」


 ​全てが、一本の線で繋がった。


 ​あの公園。あのベンチ。空への、意味不明に見えた呟き。それは奇行などではなかった。亡き妻との「約束」を守るための、彼だけに許された神聖な儀式。娘が必死に守ろうとしていたのは、父親のプライドではなく、この静かで切ない、夫婦だけの時間だったのだ。


 ​茜の目に、涙は一滴も浮かばなかった。代わりに、難解なパズルの最後のピースが完璧にはまった時のような、冷たい充足感が全身を駆け巡った。


 ​これだ。これこそが、物語の核になる。


 ​単なる「少し変わったお爺さん」ではない。亡き妻への、三年にもわたる深くて純粋な愛の物語。読者が求めているのは、こういう「本物」の感動だ。最高のストーリーじゃないか。


 ​茜は最後の手紙を丁寧に封筒に戻すと、再びリボンで固く結び直した。それはもはや、単なる古い手紙の束ではなかった。これから自分が書く記事の信憑性を担保し、何十万、何百万という読者の涙腺を確実に破壊するための、最強の「武器」だった。


 ​彼女は確信に満ちた足取りでベンチから立ち上がり、公園を後にした。編集部へ戻る道すがら、彼女の頭の中では、すでに次なる記事の感動的な導入部分が、一字一句違わずに紡がれ始めていた。


 ◇


 ​夕方の気怠い空気が漂う「Junction NEWS」の編集部に、宮沢茜がほとんど駆け込むようにして戻ってきた。その顔は興奮で上気し、目は獲物を見つけた狩人のように爛々と輝いている。何人かの同僚が訝しげに彼女を見たが、茜の視線はただ一人、編集長席に座る佐々木だけを捉えていた。


 ​彼女はまっすぐ佐々木のデスクへ向かうと、手にした手紙の束を証拠品のように軽く叩いた。


​「佐々木さん、とんでもないオチ、見つけました」


 ​その自信に満ちた声に、モニターとにらめっこしていた佐々木が顔を上げる。茜は返事を待たず、近くのホワイトボードの前に立つと、乱雑に書かれていた他の連絡事項を無造作に消し、黒のマーカーを手に取った。


 ​キュ、キュ、とマーカーの走る乾いた音が、オフィスの喧騒の中でやけにクリアに響く。


​【導入】謎の哲学者(読者の興味を引くフック)

 ↓

【展開】父を想う娘の涙(家族愛という共感要素)

 ↓

【転/結】天国の妻との感動秘話が明らかに!(涙腺崩壊のクライマックス)


​「導入は謎の老人、中盤で娘の愛、そして終盤で、亡き妻との感動秘話が明かされる! この構成、完璧じゃないですか?」


 ​茜は書き上げた構成案を指し示し、プレゼンターのように熱弁を振るう。佐々木も席を立ち、腕を組んで興味深そうにホワイトボードを眺めている。


​「決め手はこれです」


 茜は、手紙の一節を諳んじた。


「手紙にはこうありました。『あなたに話を聞いてもらうのが幸せ』。いい言葉です。でも、これじゃ弱い」


 ​彼女はマーカーのキャップでこめかみを軽く叩くと、悪戯っぽく笑った。


​「ここの言い回し、もっと感傷的に変えましょう。『あなたに話を聞いてもらうのが幸せ』じゃなくて、『空のあなたに届くと信じて、今日も語りかける』みたいな」


 ​彼女は言いながら、うっとりとした表情さえ浮かべてみせる。


​「どうです? こっちの方が、断然グッとくるでしょ?」


 ​見つけた事実を、より「読者が泣ける物語」へと、彼女は積極的に、そして創造的に改変していく。そこに、真実を歪めることへの罪悪感は微塵もなかった。


 ​佐々木は、しばらく黙って構成案と茜の顔を交互に見ていたが、やがて腹の底から笑い出した。


​「宮沢、お前は記者じゃねえ。脚本家だよ! 最高じゃねえか!」


 ​彼は茜の肩を力強く叩いた。


「やれ! その『物語』で日本中を泣かせてやれ! PV記録、塗り替えるぞ!」


​「はい!」


 ​茜は力強く頷いた。ホワイトボードに描かれた、ただの文字の羅列。それが今、彼女の目には、大成功を収める未来の記事の、輝かしい設計図にしか見えていなかった。

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