シーン4 歪んだ解釈

 ​公園から歩いて数分の、ガラス張りの洒落たカフェ。店内には軽快なボサノヴァが流れ、窓際の席に座った宮沢茜の周りでは、学生やカップルが楽しげに談笑している。その空間に溶け込むように、彼女はノートPCを開き、ワイヤレスイヤホンを耳にはめ込んだ。


 ​スマートフォンの録音アプリを開き、今日の最新データを再生する。


 ​イヤホンから、まずザーッという蝉時雨のノイズが鼓膜を打った。続いて、あの娘――美咲の、震えを帯びた悲痛な声が聞こえてくる。


『お願いです。父の取材はやめてください……』


 ​その必死の訴えを聞きながら、茜の口元には、抑えようもない笑みがじわじわと広がっていく。周りの客から見れば、それはまるで恋人からの甘いメッセージを聞いているかのようだ。彼女は自分の声が記録されている箇所まで、慣れた手つきでシークバーをスライドさせた。


​【ボイスメモログ】

​(周囲の雑音に負けない、弾んだ声で)今日の取材、神展開。まさかの娘登場。しかも『やめてください』って。これ、記事にしたら絶対深みが出る。『謎の老人をめぐる家族の葛藤』……いいじゃん。第二弾の構成、見えたわ。


​「完璧……」


 ​茜は小さく呟き、満足げに頷くとイヤホンを外した。役者は揃った。あとは最高の脚本を用意し、彼らを舞台に上げるだけだ。彼女はすぐさまスマートフォンの連絡先から「編集長 佐々木」を選び、発信ボタンを押した。


​「佐々木さん、お疲れ様です。宮沢です。例の件、すごい展開になりました」


 ​電話の向こうから、佐々木のガサガサした声が聞こえる。


「おう、どうした」


​「娘が出てきました。泣きながら、取材やめろって」


 ​その言葉に、佐の声のトーンが瞬時に変わった。


「マジか! 泣いてた? いいねえ! 読者はそういうのに弱いんだよ。よし、決まりだ。感動路線で一気に畳み掛けろ! 父親の謎に、娘の愛。完璧な構図じゃねえか!」


 ​周りの客が、何事かとこちらにちらりと視線を送る。しかし茜は全く意に介さず、その声は興奮でさらに大きくなった。


​「はい、お任せください!」


 ​力強く応じて電話を切ると、茜はノートPCに向き直った。新規作成したドキュメントファイルに、彼女は第二弾の記事タイトル案を打ち込んでいく。


​『父を想う娘の涙。「ベンチの哲学者」をめぐる家族の絆』


 ​美咲の真摯な瞳も、中島の痛々しい姿も、彼女の頭の中ではすでに、PVを稼ぐための感動的な「物語」のパーツへと、綺麗に変換され終わっていた。


 ​「娘の愛」というテーマは決まった。しかし、それだけでは記事として弱い。なぜ父は心を閉ざし続けるのか。なぜ娘はそこまで必死に父を庇うのか。読者の心を完全に掴み、動かすには、その根源にある、否定しようのない「エビデンス」が必要だった。PVカウンターの伸びが鈍化し始めているのを見て、宮沢茜は焦れていた。


 ​彼女はすでに、プロの探偵のように周到な調査を終えていた。数日間の張り込みで、中島の家の場所を特定し、彼の生活リズムを完全に把握していた。火曜と金曜の午前九時、決まった時間にデイサービスの小さなワゴン車が家の前に停まること。そして、彼が車に乗り込む直前、玄関先にゴミ袋を出すことも。


 ​火曜日の午前九時五分。じりじりと肌を焼く夏の陽光が、静かな住宅街の路地を白く照らしている。


 ​デイサービスのワゴン車が角を曲がり、走り去っていくのを、茜は電信柱の陰から冷静に見届けた。周囲に人影はない。子供を乗せた自転車が一台、通り過ぎていっただけだ。


 ​彼女はごく自然な足取りで、中島の家の前に歩み寄った。そこには、カラス除けの青いネットがかけられた指定ゴミ袋が二つ、行儀よく置かれている。


 ​茜は周囲を素早く見渡し、全ての窓のカーテンが閉まっていることを確認すると、ためらうことなくネットをめくり上げた。ハンドバッグから取り出した薄いビニール手袋を、慣れた手つきで両手にはめる。


 ​燃えるゴミの袋の口を解くと、昨日の夕食の残りだろうか、生ゴミの微かな匂いがむわりと鼻をついた。茜は全く表情を変えず、その中に深く手を差し込んだ。湿ったコンビニ弁当の容器、丸められたティッシュの塊、野菜の切れ端。それらを無心でかき分けていく。それは、目的の鉱脈を探し当てるための、純粋な探求の作業だった。


 ​やがて、指先にビニールやプラスチックとは違う、乾いた紙の束が持つ独特の感触が当たった。


 ​茜はそれを慎重に、破らないように、他のゴミの中から引き抜く。


 ​それは、水色のリボンで古風に束ねられた、数十通の古い封筒の塊だった。経年で黄ばんだ封筒の宛名は「中島秀行様」。そして差出人の欄には、「和子」と女性らしい丸みを帯びた、美しい筆跡で記されていた。


 ​見つけた。


 ​茜はゴミ袋の口を元通りに固く結び、何事もなかったかのようにネットをかけ直すと、その場を静かに立ち去った。ハンドバッグに収められた手紙の束の、確かな重みを感じながら、彼女の足取りは、ここ数日にはなかった軽やかさを取り戻していた。これで、物語の最後のピースが埋まる。

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