バズる人々
火之元 ノヒト
シーン1 日常と使命
無数のキーボードが立てるせわしない打鍵音が、まるで乾いた雨のようにフロアに降り注いでいる。Webニュースメディア「Junction NEWS」のオフィスは、カフェインと熱気が入り混じった独特の匂いで満たされていた。部屋の中央に鎮座する巨大なモニターには、リアルタイムPVランキングが神経質に数字を更新し続けている。1位、2位、3位……その順位は、この編集部における絶対的な序列そのものだ。
記者・宮沢茜(26)は、そのモニターを満足げに見上げていた。3位に表示された自身の名前と、扇情的な記事タイトル。『【衝撃】ゴミ屋敷に住む元外資系エリートの「転落人生」』。数字は今もなお、じりじりと上昇を続けている。彼女は手元のマグカップに入った、とうに冷めたコーヒーを一口含んだ。その所作には、戦果を確認する兵士のような、静かな高揚感が滲んでいた。
「宮沢、例のゴミ屋敷のやつ、また数字伸びてるぞ」
背後からかかった声に、茜は振り向かなかった。よれよれのシャツを着た編集長の佐々木だ。彼はモニターの数字を自分の手柄のように眺めながら、にやりと笑う。
「コメント欄もいい感じに燃えてる。同情するやつ、叩くやつ、最高じゃねえか。やっぱお前の嗅覚は鋭いわ」
「読者が求めているのは、綺麗なエリートの成功譚より、人間臭い『リアル』ですから」
茜はモニターから視線を外さずに答えた。その声は、揺るぎない確信に満ちている。
「みんな、自分より不幸な誰かを見て、安心したいだけなんですよ」
「違いないな」と佐々木は頷き、茜のデスクの端に腰掛けた。
「で、次はどうする? もっとデカい花火、期待してるぞ。この調子で今月のMVPも獲っちまえ」
「もちろんです」
茜は初めて佐々木の方へ向き直り、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「もう、いくつか面白そうな『原石』はリストアップしてありますから」
彼女が再びPCに向き直ると、ブラウザ画面にはお気に入り登録された無数のサイトが並んでいるのが見えた。『共感と拡散を生む記事タイトルの法則50選』、『炎上マーケティングの光と闇』、『バズる動画コンテンツの作り方』……。
茜はそれらのタブを一つ閉じると、新しいウィンドウを開き、慣れた手つきでSNSの検索窓にキーワードを打ち込み始めた。その目は、次の獲物を探すハンターのように、鋭く光っていた。
佐々木が去った後も、茜の指はスマートフォンの画面を滑り続けていた。TikTok、X、Instagram……あらゆるプラットフォームを巡回し、次の「リアル」を探す。踊ってみた動画、大食いチャレンジ、ペットの愛らしい仕草。どれも一度はバズったフォーマットの焼き直しで、彼女の食指を動かすものはない。その目は、市場に並ぶありふれた商品を見るバイヤーのように、冷ややかに光っている。
退屈さがピークに達したその時、あるショート動画で彼女の親指がぴたりと止まった。
ざらついた画質に、風の音。明らかにプロが撮ったものではない。そこに映っているのは、変哲のない公園のベンチにぽつんと座る一人の老人だった。小ざっぱりとした身なりで、背筋を伸ばし、ただひたすら空を見上げて何かを呟いている。音声はほとんど聞き取れないが、その口元は確かに動いていた。
投稿には「近所の公園にいる謎のおじいちゃんw」という素朴なテキストと、いくつかのハッシュタグが添えられている。
#ベンチの哲学者 #何言ってるの #シュール
再生数はまだ数千回。だが、コメント欄には妙な熱気があった。
「うわ、この人、うちの近くの西見中央公園に毎日いる!」
「マジか! 俺も見たことある! いつも同じベンチだよね」
「なんか悲しそうに見えるのは私だけ?」
「いや、シンプルにヤバい人でしょw 関わらない方がいいって」
茜の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。これだ。
作られていない、無加工の「素材」。ゴシップ的な好奇心と、かすかな同情。背景が全く見えないからこそ、どんな物語でも被せられる。視聴者の想像力を無限に掻き立てる、最高の「余白」がそこにはあった。
「いい……」
呟きは、誰に聞かせるでもなく漏れた。彼女はスマートフォンを置くと、すぐさまPCのメモ帳アプリを立ち上げた。さっきまでの退屈そうな指先が、今は高速でキーボードを叩いている。
【取材計画メモ:ベンチの哲学者(仮)】
ターゲット: 氏名不詳の老人(コメントから身元割出可)
場所: 西見中央公園
コンセプト: 現代社会の喧騒に背を向け、空と対話する孤独な老人。その言葉に隠された真実とは何か? 人々はなぜ彼に惹かれるのか?
彼女は思考を止めずに、さらにタイトル案を打ち込んでいく。
・SNSで話題の『哲学者』、その正体に独占密着
・彼の言葉は現代社会への警鐘か? 沈黙に隠されたメッセージ
・【直撃ルポ】公園のベンチから動かない男
場所は特定できた。あとは、現地へ行くだけ。茜は手帳を開くと、明日の午前中のスケジュール欄に、力強い筆圧でこう書き込んだ。
「西見中央公園 現地調査」
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