祈られたフェンス 其ノ弐

 東京都千代田区霞が関。

 立ち並ぶオフィス群から反射した、突き刺すような日差しに耐えかねて、四十を越え始めた壮年の、益体もなく言えばおっさんの、佐々木新(ささき あらた)も遂に観念して日傘をさし始めた。


 紫外線やら日焼けやらを気にするような顔でも無い、いい年をしたおっさんの自分が日傘をさすというのが、どうにもむず痒い感じがするではないか。


 チラチラと周りを見ても、これから登庁するであろう女性職員か、今風のシュッとした感じの、男だか女だか分からない見た目の、若い男性職員らしき奴らがさしている位だ。


 討滅係として現役だった時はどんな怪異が相手でも平気だったが、年々増していくこの夏の暑さときたら、どの怪異よりもしつこく強力で、倒す事も逃げる事も出来ない。


 なまじ普段から人知を超えたものを相手にしている分、この暑さを何とか出来無いかと考えてみるも、止めた。

 そんな便利な道具も術も無い。

 怪異には勝てても、結局自然には勝てない。それが人間の限界である。


 まだまだ朝の8時15分頃。

 照り付けるには早いと愚痴りたいものだが、年々、そうも言っていられなくなっている。


 背負ったリュックと背中の間には、行き場を失った湿気と汗が滲んで、ベッタリとインナーが張り付いていた。

「こりゃあ、着替えを持ってきておいて正解だったな」

 俺の班には、祝部にカレンに月島と、何だかんだで女の方が多い。

 気にするような奴らでは無いが、昨今は何を言われるか分からん。

 何より、俺がもう着替えたい。


 片手に持った気休めのアイス缶コーヒーもその役割を終えてしまい、夏の陣営へと寝返りを決め込んでしまっていた。


 ◇◇◇


 昼前の、もうすぐ休憩の期待感と、月曜のダルさが行ったり来たりする庁舎内の、奥まった位置にある小部屋。


「佐々木班」


 明朝体で書かれた簡素なプレートが貼られた一室からは、警視庁のオフィスと言うよりも、どこかの学校の部室のような、同好会やらの溜まり場のような、霞が関には似つかわしく無いのんびりとした、悪く言えばダラけた空気が漂っていた。


 個人的で業務にはおおよそ使わないような、本当に仕事をしているのかすら怪しい、ヘアアイロンに細々としたコスメが散乱した机。


 生地がよれて、肘掛けに至っては同じ人物が同じ姿勢でいつも寝ているせいで、まるで誂えたかのようにヘコんだ薄緑色のソファ。


 漢方やらサプリメントやらが所狭しと詰められたガラスケース。


 誰かの家というにはカッチリとした雰囲気の、どこのオフィスにもありそうな、グレーの不格好な引き出し付きのデスクが並んでいた。


「おはようさ〜ん、ほんま暑くて敵わんわぁ、早う冬にならんやろか?」

 ディオールのロゴのついたハンカチでパタパタと扇ぎながら、ゆったりとした白色のワンピースに、それっぽっちのサイズで一体何が入るんだか、と言ったような、プラダのレザーミニバッグをプラプラと提げた祝部綾音が登庁してきた。


『おはようございます。祝部さん、もうお昼前ですよ?』


 凛とした声の主は、部屋の奥まった一角で、車椅子に座る小柄な女性だった。


 月島操(つきしま みさお)。


 切り揃えられたショートボブに、年齢不詳の童顔。その手元には、例の「狐憑式霊視盤(こつきしきれいしばん)」──霞が関の地図と、色とりどりのおはじきが散らばるボードが広げられている。

 彼女は、ボードから顔を上げることなく、オフィスに入るや否や応接用のソファにどっかりと座って、キャラメルモカフラペチーノを啜り始めた祝部に、いつもの苦言を呈した。


「えぇやないの〜、今は大して忙しくないんやから」

 と、公務員にあるまじき態度で、これもまたいつものように、チョコやら飴やらグミやらをバラバラと、テーブルの上に並べながら返事をした。


『……そういえば、佐々木さんはまだ来てへんの?』


 まるで、いたずら娘がいつも説教を垂れる父親の不在に気がついたように、辺りをキロキョロと見回す。


『少し前までは居たのですが、羽柴班長に呼ばれたとかで、出ていかれましたよ?』


 霊盤とにらめっこをしているのにも疲れたのか、ふぅっと息を吐き、薄緑色のソファで足を放り出して眠っている猪熊カレンと、その向かいの応接用のソファに座る祝部をちらりと見やると、祝部がさっきまで上機嫌に啜っていたフラペチーノをコトリとテーブルに置き、ヘアアイロンに細々としたコスメ、そして、書類の束が鎮座する自分のデスクを一瞥している。


『ふぅん、羽柴さんの所かぁ……』


 思い当たる節がある。

 思い当たる節しかない。


 そうかぁ、羽柴さんの所かぁ……


 どうしようかなぁ。

 何とかならんかなぁ。

 上手いこといかんかなぁ。


 はぁ~あ……

 ええけどな、やれるけどなぁ……

 やっぱやりたないなぁ〜。


 ◇◇◇


 ────うず高く、積もっていた。


 お菓子、ジュース、ぬいぐるみ、千羽鶴。


 夢を見ていた。


 誰かが見下ろしている。


 声が聴こえる。


 悲鳴なのか嗚咽なのか、ただの風の音なのか。

 年季の入った商店街にほど近い、線路沿いの住宅街。


 供物の積まれたフェンスの、すぐそば。


 そこに住まう者たちが、皆一様に、同じ夢を見始めていた。

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