『時輪の記』第2話 開拓使の影

@Shinji2025

第2話

雪は静かに降り続き、吐く息が白く揺れて消えた。

——あの日、高層ビルの屋上から飛び降りた僕は、確かに死ぬはずだった。

なのに、目を開けた先は雪原と木造家屋の広がる町で、僕はまだ生きている。誰かに呼び戻されたみたいに。いや、正確には——祖父の懐中時計に、だ。


助けてくれたのは、和子という若い女性だった。

「こちらです」

彼女に案内され、薄暗い長屋の一室に入る。戸を閉めると、風の音がふっと遠のいた。囲炉裏の火がじんわりと体を温め、固くこわばっていた肩の力が少し抜ける。煤の匂いと、味噌汁の香りが混じり合い、雪の夜の匂いを和らげていた。


「兄の誠一が……」

和子は俯き、少しだけ唇を噛んだ。役所勤めの兄が、突然契約を打ち切られたという。

「写し間違いが多い、と言われました。でも、あの人は几帳面なんです。筆の運びひとつ乱れません。……それなのに」

生活は一気に苦しくなり、兄は口をつぐんだまま落ち込んでいるらしい。


(突然の解雇、理由を言わない上司……現代でも何度も見たやつだ)


そのとき——コートのポケットが不自然に重いことに気づいた。

手を入れると、そこにあったのは折りたたみ式の黒いスマホ。

「……おいおい、なんでだよ」

画面を開くと、満タンの電波表示。Wi-Fiなんてあるはずのない時代で、ネットもAIも全部生きている。理屈はわからない。けれど、いま必要なのは理屈よりも“使えるかどうか”だ。


「和子さん、その……誠一さんの仕事で使っていた帳簿、見せてもらえますか?」

「今日だけ、親戚の方から借りられました。すぐ返さねば」

囲炉裏の前に置かれた分厚い帳簿は、墨の匂いがして温もりがあった。紙は重く、筆圧の差が数字の呼吸を伝える。

やがて襖が開き、和子の兄——誠一さんが現れ、渋い顔で帳簿を開いた。


「この数字……どうしても納得がいかないんです」

「じゃあ、読み上げてもらえます?」

僕はスマホを開き、音声入力をオンにした。

「明治十四年十月二日、屯田地、面積三十四町……単価……」

読み上げるたびに、AIが瞬時に表を整形し、時代表記や単位の違いを勝手にそろえ、比較用の新しい列を作っていく。面積あたりの単価、近隣平均との比率、取引時期の季節要因、関連名義の出現頻度——。紙の海に、急に地図が差し込まれたみたいだ。


「これ……明らかに安すぎる」誠一さんが眉を寄せる。

赤くハイライトされた行には、同じ名前が繰り返し出てきた。

「この“関”って人物、知っていますか?」

和子がうなずく。「札幌の有力商人です。庁舎に頻繁に出入りしています」


僕は二人に、事件の全体像を説明した。

「開拓使は北海道の開発のために、土地や工場、倉庫、官営事業の設備をたくさん持っていました。

でも明治十四年に廃止が決まって、資産を民間に払い下げることになった。表向きは“民の力で開発を継続する”っていう目的。

ところが、実際に名義が集中しているのは、政府高官と近い政商ばかり。しかも相場の何分の一、ひどいのは十分の一なんて値が並ぶ」

スマホ画面のグラフを見せると、和子と誠一さんの目が丸くなった。

僕は続ける。

「史実では、この不正は新聞で暴かれて計画が中止。上の方々が責任を取って辞める流れになります。……ただ、そこに至るまでの過程で、数字を見た人に“口止め”がされる。誠実な人ほど、理不尽に弾かれる」

誠一さんは、目を伏せた。

「私は、ただ……帳簿の不自然さを尋ねただけで」

「正しいことを言った。それだけです」

僕は、はっきり言った。声の震えを押さえながら。


まずは、証拠の組み立てだ。

スマホのカメラで帳簿を一枚ずつ撮り、OCRで読み取る。画面の中で文字がデータに変わり、AIが“異常値”をマーキングしていく。

「見てください、この辺り。似た面積の土地で時期も近いのに、相場の三分の一。あと、名義のつながり——」

相関図を出すと、特定の商人名から枝分かれに関連人脈が広がる。取引の“ハブ”になっている点が浮き上がった。

「これを、誰か信用できる人に渡したい。出所は伏せて、裏取りの手段も一緒に」


「地元の新聞社に、小沢さんという方が」

和子が紹介状をしたため、僕らは夜の雪道を急いだ。

札幌の新聞社は思ったより小さく、けれど中は活気があった。石炭ストーブの熱でガラスが曇り、若い記者たちが活字の整理をしている。

「君たちが——」

細身で目の鋭い青年が出てきた。小沢。

彼は資料の束を食い入るように見た。

「相場比較に、当時の売買事例をどう参照しました?」

「地図と年鑑と、帳簿自体の近接取引。全部、出典を欄外に記しています」

「名前の頻出は?」

「固有名詞を抽出して出現回数を算出しました。ここに頻度の上位。……ただ、これは状況証拠なので、肝心なのは現場の“口”です」

「つまり、庁舎の中の人間」

小沢の目が少しだけ笑った。「用心深くやりましょう」


その夜から、僕らは小さな連携チームになった。

小沢は独自に庁舎周辺を歩き、賄賂話に出入りする手代の動線を洗った。

僕は、スマホのメモに“現場確認リスト”を作り、和子と誠一さんと一緒に、帳簿と実物件の乖離を確かめに行った。

雪が深い畑地に立てば、風がむき出しの頬を切る。地権者の古老は、厚い手袋を外して地図を指さし、「ここは昔、もっと高う評価されとった」と静かに言った。

別の日は、倉庫に行った。はしご段の隙間から冷気が上がり、木箱に刷られた官有印がかすれている。番人は最初、誰とも口を利こうとしなかったが、和子が熱心に説明すると、眉間の皺がほどけた。

「帳簿があんたらの言う通りなら、ここは……安すぎる」


資料は揃い、時間は満ちた。

小沢は大見出し案を机上に置き、深く長く息を吐いた。

「見出しを煽りすぎるのは好きじゃない。けど、読者の目を止める必要はある。“疑惑”——これぐらいだ」

僕はうなずいた。「お願いします。出所は伏せて」

「当然です」

彼は資料束を懐にしまい、鉄の活字が並ぶ部屋へ消えていく。

石炭の匂い、活字の金属の匂い、冬の紙の乾いた匂い——。

古い印刷機が回り出す音が、心臓の鼓動と同じリズムで鳴った。


数日後——。

札幌の町角に張り出された号外の前に、人だかりができていた。

「官有物、不正安値払下げか?」

見出しは黒々と踊り、欄外の数字が生々しい。

「見ろよ、三分の一だってよ」「名義、同じだべや」「お偉方の商いか?」

ざわめきが広がり、庁舎前には雪を踏み鳴らす靴音が重なる。

夕刻、東京の新聞にも電信が飛び、翌朝には中央でも話題になったという噂が走った。


そして、潮は引くように早かった。

世論は沸騰し、ついに開拓使の官有物払い下げ計画は中止に追い込まれた。

その報せが届くと同時に、誠一さんの立場も一変する。

「事件を追及したのは誠一ではなく、新聞記者と市民たちだ」との話が広まり、彼が不正を拒み、真っ当な帳簿にこだわった“きっかけの人”だったことが町で知られるようになった。

役所を辞した後も、彼の誠実さを評価する商家が現れ、新しい会計係として迎え入れたいと申し出た。面談の場で店主は言った。

「字が正しい人は、商いも正しい。うちに来てくれ」

誠一さんは、唇を震わせながら深々と頭を下げた。


和子はその足で、長屋の前に立つ僕に深く頭を下げた。

「兄は……再び胸を張って町を歩けるようになりました。本当に……ありがとうございました」

「僕は、並べて見えるようにしただけです。正しさは、もともと兄さんの中にありました」

僕はうなずき、胸ポケットの懐中時計を指で撫でた。

(時代が違っても、数字と証拠は真実を守る武器になる。

 情報を開き、誰もが検証できる社会でなければ、同じ過ちは繰り返される)


その夜、雪はさらに細かくなり、空は音を飲み込んでいた。

僕は一人で町はずれを歩いた。靴底のきしむ音、軒先の氷柱から雫が落ちる小さな音。遠くの犬が、短く一度だけ吠えた。

スマホを取り出す。画面に映るのは、見慣れたホーム。ありえない電波表示。

(なぜ繋がるのかは、まだわからない。けど、困っている誰かがいるなら——使う意味はある)

僕はふと、現代の家族を思い出す。

(母さん。……そして、妹。必ず帰る。ちゃんと、帰る)


足音が、雪の上でふいに増えた。

背後から、二人、三人——。

足取りは重く、呼吸は荒い。酒の匂いが風に乗り、近づいてくる。

振り返るより早く、肩口を乱暴につかまれ、壁に押し付けられた。

「余計なことをしやがって……!」

布で顔を覆った男が低く唸る。

「お前のせいで、こっちの“商い”が全部パアだ」

「“相場”を知らないのか?」僕は息を整え、できる限り穏やかに言った。「人から盗んだ分は、いつか必ず利子がついて戻ってくる」

「口が達者だな」

短い刃が、月の白を拾って冷たく光った。


胸のあたりに、鋭い痛み。空気が押し出され、喉が音を失う。

世界の輪郭がぼやけ、雪が近づく。

膝が抜け、手からスマホが滑り落ち、雪に顔をうずめた。

視界の端で、懐中時計が外套の内側から転がり出るのが見える。

その瞬間——胸ポケットの内側で、懐中時計が強く光った。

針が激しく逆回転を始め、白い光が視界を満たす。

吹雪の音が遠のき、体が宙に浮くような感覚に包まれる。

(……また、別の時代へ……?)

誰かが僕の名を呼んだ気がした。

和子か、母か、妹か——。

答えようと口を開くが、声は雪に吸い込まれ、ただ光だけが残った。


——第3話につづく。



(巻末コラム:この事件から現代が学べること)

背景:官の巨大資産を誰に、どう移すかは常に利権の温床になり得る。


目的:公共財を民間活力に委ねる——自体は悪ではない。問題は手続きの透明性。


事件の内容:特定の関係者に有利な条件、相場からかけ離れた価格、説明責任の欠如。


結果:世論の監視が働き、計画は中止。政治のトップが責任を問われた。


現代への教訓


データを開く:価格、条件、プロセスをオープンデータ化。


第三者監査:独立した監査と市民の目線を仕組みに組み込む。


技術の役割:AI・可視化ツールで“異常値”を早期検知。嘘をつきづらい設計にする。


個の勇気を守る:告発者保護、内部通報制度の整備。


「透明性 × 技術 × 監視」がそろえば、不正は起きにくく、続きにくくなる。

それは140年前も、今も、そしてこれからも変わらない。

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