花天月地【第71話 夢の残照】

七海ポルカ

第1話

 


 幕舎の外が燃えている。

 

 ここも燃え広がる可能性はあるが、

 この雨次第だろう。

 風が吹けば延焼は拡大する。

 しかし雨が更に再び強まれば、火の勢いに勝る。


 優れた軍師は天候すら味方に付けると言うのだから、

 幼少の頃から飽きるほど、神童などと呼ばれ、好き勝手にさせてもらって来た自分は、

 この局面において泰然自若と、雨が続く――そう読み切らなければならない。

 

赤壁せきへき】に出陣した呉軍の黄蓋こうがいは、

 からの船団を浮かべて、策を見抜かれれば一撃で薙ぎ飛ばされるような手勢で、二十万の魏軍の前に居座ったという。

 周公瑾しゅうこうきんは更に、その一瞬で消し飛びそうな黄蓋の大船団を囮に、夏口かこうへの上陸作戦を決行し、二十万の後方から四万の手勢で襲いかかったのだ。


 他人でありながら兄弟のように育ち、

 同じ男を、共通の父のように慕った。

 周家は名門の家柄だが、周瑜は血に拘らず、

 全て、自分の手で選び直した。


 郭嘉かくか周瑜しゅうゆを気に入ったのは、孫策そんさくと合流した状況を夏侯惇かこうとんから聞いてからだ。

 周瑜は孫策が袁術えんじゅつの許から去った瞬間に、直ぐさま兵を率いて合流している。


 ――あれぞ、君主を守る優れた臣下の動きだ。


 まだ孫策など、どこに領地もなく、単なる袁術麾下きかの逃亡兵だったのに迷いも無く合流した。

 まるで照らし合わせたようにそのまま長江ちょうこうを下り、江東こうとうに侵入しているため、もしかしたら本当に相当以前から何らかの形で照らし合わせていたのかもしれない。


 だが未来のことなど、一日後のことでさえ分からないこの乱世で、 

 会うこともなく、

 遠い先の約束をし、

 それを果たすなど、どれほど困難なことなのだと思う。

 

『見事な男ですね』


 郭嘉がそう言うと夏侯惇かこうとんは口の端を歪ませて笑い、頷いていた。


『貴方が首に拘ったわけが分かる』


 重ねた言葉には、大きな声を出して笑う。


『まんまと逃げられた』


【江東の虎】と呼ばれ、董卓とうたくにさえ「本当の豪傑」と言われた孫文台そんぶんだい

 孫伯符そんはくふは袁術の許を去ると、瞬く間に江東を平定し【小覇王しょうはおう】の異名を取った。


 二人の魂に連なる周公瑾が全てを賭したのが、赤壁の戦いなのだ。



『見てみたかった』



 それが夏侯惇から赤壁の戦況を全て聞いた後、郭嘉が一番最初に口にした言葉だった。

 夏侯惇は隻眼を大きく見開き、輝かせてから大笑いした。


『やはりお前は変わっているな。

 誰しもが【赤壁せきへき】の話を聞くと、あんな戦いをすべきでは無かったというような顔をするのにお前だけは目を輝かせる。

 郭嘉かくか。お前は本当に、絶対にロクな死に方をせんぞ』


『二十歳で死病に掛かって死ぬはずだった。

 それを生き残ったんだ。

 私は今更、どんな死に方をしても本望ですよ』


 それだけは真実だ。


 郭嘉は卓に寄りかかる姿で頬杖を突き、微笑んだ。

 大将軍である夏侯惇の前でこんな態度を取るのは、曹操そうそうか郭嘉だけだった。

 夏侯惇は言葉では咎めたが空気も、声も、穏やかだった。


 子供の頃はお前はうるさい、動き回るな、喋りまくるな、曹操につきまとうな、未亡人に声を掛けまくるなと何かにつけて叱られたのに、そういえばいつの間にか夏侯惇かこうとんは郭嘉を全く叱らなくなった。


 あれはいつが、境目だったのだろう。


『全く無様な敗戦だったのに、お前の喜びようを見てると、まるでお前のために長江ちょうこうまで喧嘩しに行ったのではないかとまで思えて来る。

 お前がそれを聞き、そうまで聞いて良かったと子供みたいに目を輝かせるならばな。

 お前の糧になるならば、やる価値があった戦かもしれん』


 郭嘉は南進には反対だった。

 彼は長江が分け隔てる呉との距離とその天命を、重く見ていた。

 郭嘉が狙っていたのは陸伝いの西、涼州か中原ちゅうげんからの江陵こうりょう、江陵からの成都せいと侵攻だった。

 

 の利は、豊かな人材の多さだ。

 そして曹操は豊かな人材を率いて、自ら戦場に立ち曹魏の運命を切り拓いて来た。


 江陵に踏み込んだ時、がどう動くかは分からない。

 江陵に派兵するとは限らない。

 赤壁で出て来た三国最強の水軍が、その時は本気で長江を遡上し、合肥がっぴから許都きょとぎょう洛陽らくようを襲撃する恐れがあるが、それを跳ね返しての防衛戦を制すれば、間違いなく曹操が呉の侵略から魏を守った偉大な君主ということになる。

 洛陽の帝を侵略者から守ったという名目も立ち、駆けつけなかった劉備に、忠臣を名乗る資格はない。

 しかしながら戦力で劣る孫呉には長江を越えて侵攻して来る利はない。

 遠征軍になれば南の異民族との防衛線も揺らぐ。


 江東を長く留守にすれば、燻っていた火種がまた燃え始める。


 そんな危険は冒さないだろう。


 荊州けいしゅうに対しての孫呉の対応には、王位を継いだ孫権そんけんの素質が試される。

 しかし荊州に出て来るか、合肥に出て来るかは魏の問題ではなかった。

 それに対応出来るかどうかだ。


 西の涼州には地に明るい賈詡かくと魏軍最強の機動力を持つ張遼ちょうりょうを布陣させ、合肥がっぴには夏侯淵かこうえん張郃ちょうこう、攻守に長けた二人を置き、臨機応変に南に対応する。


 江陵こうりょうが一番、蜀と呉の両方の動きを読まなくてはならないため慎重を要するが、魏にはまだ荀攸じゅんゆう荀彧じゅんいくがいる。

 あの二人ならば二面を見据えて動き、敢えて江陵や合肥の守りを減らし、南の孫権を誘き出すような策も、手際よくこなせる。


 あとは動かなかった戦線を、動いた戦線に増援として送り込み、蜀をまず陥落させる。

 郭嘉の思い描く狙いはそれだった。

 

 これだけ優れた将を使って尚、許都きょと司馬懿しばい曹丕そうひを残す。

 自分が集めた優れた人材が、各地で挙げる華々しい戦功を聞く曹操の目はきっと輝くだろうと思う。


 しょくを陥落させたら、合肥で孫呉を迎え撃つつもりだった。

 孫権に出兵させる。

 出て来ない場合は蜀の残党を動かしてでも、力ずくで引きずり出す。

 

 曹操には孫権を片付けてから、呉の大船団をそのままに、そこに彼を乗せて建業けんぎょうに向かう。


 郭嘉が思い描いていたのはそういう大陸を陸続きに、最終的に建業を制して船で凱旋するというものだった。


 長江ちょうこうを下り、成都せいとにも行く。

 蜀と呉を制すれば、大陸にもう敵はいない。

 敢えて出て行って撃破しなければいけないというような敵、という意味だが。


 涼州騎馬隊を帰順させ、涼州の山河も見に行く。

 陸続きに見えて来る、曹操の故郷。



 最後に、自分が曹操をぎょうに連れて行く。



 そうした時の曹操の表情は、郭嘉でも想像が出来ない。

 故に、永遠に解けない謎のように焦がれる瞬間だった。


 郭嘉が幕閣の反対を押し切って、袁紹えんしょうを討った直後は北伐を一番最初に行うべきと言ったのは、この道筋が完全に見えていたからである。


 豊かな人材を、適材適所で使わなければならない。

 後方の憂い無く。

 北方を袁家に押さえられている限り、曹操は許都きょとや鄴から動けない。

 彼が動けないということは、彼の護衛に要する軍も動かせないのだ。それは無駄な兵の備えだった。


 北方を制し、三面に集中する。

 曹操に決して後方を振り返らせない。

 前だけを見て、自分の許に集った才の戦果を見てもらう。

 

 鄴への帰路で、曹操と全てを話し尽くしたい。

 郭嘉は死病の底で、その幸せを考えていた。


 建業けんぎょうからの長い凱旋の旅、

 ついに叶えた天下統一の帰路で、数多の街や、城や、山河を通る。


 曹操が作る数々の詩が聞きたかった。

 鄴に戻る頃にはきっと莫大な詩が生まれる。

 それを太平のみことのりにして、譲位すればいい。

 

 この豊かな人材を各戦線で惜しみなく使うという戦法は、魏にしか使えないものだった。


 だから曹操が南進を決めた時は、まだ早いのだと思った。

 それを伝えたかったが、その時は伝える術が無く、

 余力も無く、

 赤壁せきへきで大敗を喫した。


 報せを聞いた時は怒りしかなく、

 自分がついていながら曹操を敗者にしたことに、

 従軍もせず、自分の体など療養させ、

 曹操だけを戦わせたことが許せず、

 感情が爆発した。


 自分の命など捨てていいから、南進だけは時を避けなければいけないのだと、

 伝えなければいけなかったのに。


 自分が無価値に思えて、

 

 ……赤壁最大の功労者である、

 周公瑾しゅうこうきんが病没したという報せを、持って来たのは荀彧じゅんいくだった。


 貴方に話すべきか迷いましたが。


 彼はそう言って切り出した。


 自分を責めている郭嘉に、周公瑾の病没を聞かせたら、恐らく恥じ入り自刃するのではないかと危惧したのだろう。



『郭嘉どの』



 荀彧が呼んだ。


『私が、……殿の魏公ぎこう就任に反対した時、貴方が私に言葉を掛けて下さいました。

 あの言葉がなかったら、…………私は恐らく、この場にいなかったでしょう』


 何か一つでも今ある拮抗が崩れたら、自分の根底にある、何かがそこから崩れそうな気がして、郭嘉は言葉を発さず荀彧の顔も見なかった。


『その、生き長らえた私が、こうして周公瑾しゅうこうきんの病没を貴方に伝えた。

 このことで貴方が絶望し、未来を捨ててしまったら、

 私は本当に、殿に合わせる顔がない』


 死にます、と言っているのが分かった。


『どうかご自分に価値がないなどと思われませんように。

 私が、自分の亡き後、曹操殿を託せると思っているのはこの世で貴方だけ。

 郭嘉殿。

 貴方はこれから曹操殿の為に咲く花です。

 貴方が必ず大輪になると殿も私も、貴方の幼き頃より知っていた。

 だからどんな大きな敗戦からでも、貴方は蘇れる』


 郭嘉の肩に触れようとして、荀彧は止めた。

 その時、幼い頃から知っている郭嘉が初めて見る顔を見せた。

 目を見開いたまま、こちらを見ず凍り付いている。

 

 薄氷のようなもので身を包んで、後が無い場所に郭嘉が立ち、耐えていることが分かったからだ。

 触れればその氷を溶かし、郭嘉の心を砕くかもしれない。





【蒼天にある 星。 王が仰ぎ見る】





 荀彧の声が、歌うように紡いだ。



天燐てんりんが魂を鎮め 地に澄み通れば】


【深淵の蓮を覗き込んでこそ、太平のことわりる】








『星は最後まで、王と共にあるものです』







 美しい拱手きょうしゅをして、荀彧が静かに去って行った。


 荀彧じゅんいくの気配が完全に去ると、ようやく内から感情が溢れて来た。



 生き残った以上、

 誰が死んで果てようと、必ず自分が最後まで曹操そうそうの許に残ると郭嘉はあの時、心に決めたのだ。

 心に決めれば、

 恐れなど、あるかないかは問題では無い。


 南進には確かに反対だった。

 内容を聞けば、それは無様な敗戦で、多くの兵を死なせた。

 出さなくていい犠牲を出した。


 ……だが対した孫呉の戦いざまは見事で、

 無駄な戦いだったと言わせないほどの何かがあった。

 戦は味方だけでは無く、敵もまた、見なければならない。

 一つの戦況が他の戦に連動することもあり、

 一つの負けが、その後の勝利に結びつくこともある。

 

赤壁せきへき】は有益な戦いだったのだ。

 郭嘉は今では、そう思っている。

 そこには立てなかったが、全てを詳しく夏侯惇からも、曹操からも聞いて、

 頭の中で幾度も考え、想像し、

 そこで起こったことを脳に叩き込んだ。

 

 曹操そうそうには様々な戦場、戦いを子供の頃から見せてもらった。

 それは全てが郭嘉の糧になっている。

 赤壁もまた、曹操が見せてくれた戦の一つなのだ。


 そんなことを思いながら涼州にやって来る途中、

 いつから夏侯惇かこうとんが自分を諫めなくなったのか、分かった。




官渡かんとの戦いだ)




 あの戦いだけは見たかったのにと思っていたが、夏侯惇がどうしても首を縦に振らなかったのだ。

 そういう時は大概曹操が夏侯惇を「いいではないか」と宥めてくれるのに、あの時は曹操は夏侯惇を諫めなかった。

 夏侯惇も、郭嘉が聞き分けない時は容赦なく頭に拳骨を入れてきたり、反省するまでそこにいろと木の枝に郭嘉を引っかけたりしていたのに、


「死闘になるからお前は来るな」


 その一言だけで制して来た。


 ――だから見たかったのに。


 とても残念に思って、大人ぶった夏侯惇に腹も立ったが、その怒りのおかげで彼らが無事に帰ってくるかしらなどとしおらしい気持ちには少しもならなかった。

 死んで帰って来たら、あの夏侯惇の墓を蹴り倒してやると密かに思っていたほどである。


 自分からあの大戦を見る機会を奪ったのだから、生きて帰って、自分に全てを話す責任があると思ってぎょうで待ち構えていた。


 勝利の報が鄴に届いた時、ほとんどの者が袁紹えんしょう軍がやって来ると恐れ戦いて逃げ出していた。信じて残っていた者や逃げ場のない者達が、その報せに腰が砕けて座り込んでいたが、郭嘉は飛び上がって喜んで、殿を迎える準備をしなくてはと忙しがってる荀彧を無理に引っ張って凱旋途上の曹操の許に直接飛んで駆けて行ったのだ。


『おかえりなさい!』


 曹操の子供の中で誰が一番早く迎えに出て来るか、賭けていたという。

 駆けて来た郭嘉を見るなり、夏侯淵かこうえんが大笑いしていた。


 臣下達が曹丕そうひだの、曹植そうしょくだの、他の傍系の子供だの、色々名前を出す中で。


『郭嘉だな』


 曹操だけがそう言ってニヤニヤしていたらしい。

 

『御大将の勘の良さには恐れ入る。こら袁紹えんしょうなんぞが勝てるわけがねえ』


 大人達は笑っていて、

 夏侯惇かこうとんが郭嘉にその時言ったのだ。


『小僧。ぎょうに戻ったら戦いの詳細を詳しく聞かせてやるから訪ねて来い』


 いつも来るな寄るな帰れと叱責されていたのに、夏侯惇が「来い」と郭嘉に自分で言ったのはあの時が初めてだった。


 あれから一度も、夏侯惇に本気で怒られたことが無い。


 多分【官渡かんとの戦い】が本当に凄まじく、

 あの戦いを郭嘉に見せれば良かったと夏侯惇は思ったのだろう。

 それで大戦前追い払ったことを悔いて、少し優しくなったのだ。


 二度に渡って大戦に携わることを逃したが、

 詳細に全てを聞いて、調べ、頭に思い描けてはいる。

 必ず全てを糧にする。


 思い描き、

 それを成す為に、あらゆる手を尽くす。

 

 何度邪魔が入っても、

 どんな想定外のことが起こっても、

 星の轍に流れを戻す。


 周囲は火の海だ。

 思い描く。


 長江ちょうこうを赤く染めた。

 天を焦がすほどに。


 黄蓋こうがいは死の時を待った。

 周瑜しゅうゆは死へ向かって行ったのだ。



 それなら自分は死の時を待ち、そこへ向かい、

 


(そして)


 

 ゆっくりと、郭嘉は深く座っていた椅子から立ち上がった。

 軍衣を襟から整えて、そこで彼は初めて、閉じていた瞳を静かに開いた。




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