傘の中の秘密
改札の前で、私たちは一度足を止めた。
電車の到着まであと八分。
外はまだ雨が降り続いていて、ホームに入る風が冷たい。
「……莉音さんは、このあとどうするんですか?」
「ん? コンビニ寄って、家帰るだけだな」
「そうなんですね」
紗英は少し考えるように視線を落とした。
白い首筋に、濡れた髪が張り付いている。さっきまで肩に触れていたぬくもりを、 私はまだ忘れられない。
ホームに降りても、雨は屋根を叩きつけている音が響いていた。
電車が来るまでの時間を持て余し、私は何となく尋ねた。
「……いつも残ってんのは、仕事のせいか?」
「え……」
紗英の肩がわずかに揺れる。
あ、やべ、地雷だったか——と思ったが、彼女は少しだけ笑って首を横に振った。
「……隠してもしょうがないですね。はい、アルバイトです」
「どこで?」
「……音楽関係のところです」
曖昧に答えたが、その声色にはほんのりとした誇らしさが混じっている。
私は彼女が演奏している姿を想像する。
人前に立ち、あの整った顔と落ち着いた雰囲気で楽器を奏でる——似合いすぎて腹が立つくらいだ。
「へぇ……意外」
「そうですか?」
「生徒会長って、なんでもそつなくこなすイメージだし」
「……そんなふうに見えてるんですね」
少しだけ寂しそうに笑う。
それは、さっきまでの完璧な笑顔とは違い、隙を感じさせる表情だった。
電車が到着する気配はまだない。
紗英はホームの端に視線を向けたまま、ぽつりと続ける。
「……うちは、あまり裕福じゃないんです」
「……」
「父は、私が小さいころに亡くなって……母もあまり体が強くなくて。だから、学費も生活費も、自分でなんとかしないと」
淡々としているようで、ところどころに押し殺した感情が滲む。
その声を聞いているうちに、私の胸の奥がじわじわ熱くなった。
普段の彼女は、誰にでも平等で、優しくて、欠点がないように見える。
けれどその裏で、必死に支えているものがある。
その事実が、変な話だけど——嬉しかった。
ただの「完璧な生徒会長」じゃないことが、妙に安心できた。
「……それで、夜も働いてるのか」
「はい。母や妹には心配かけたくないので、できるだけ内緒で」
「……すげぇな」
本音だった。
私には想像もできない責任感だ。
口先だけで大人ぶってきた自分とは、根っこの部分から違う。
「すごくなんてないです」
紗英は首を振り、少しだけ私を見た。
その瞳は、雨粒を反射してかすかに光っていた。
電車が入ってきた。
ドアが開き、私たちは向かい合わせに座る。
窓の外の雨は相変わらずだが、さっきよりも静かに感じる。
「……さっきの話、誰にも言わないでくれますか?」
彼女はそう言った。
「わかってる」
即答した私に、紗英はほんの少し微笑む。
その笑みが、さっきまでの雨よりもずっと温かく感じた。
電車が揺れるたび、向かいの席の彼女がふとこちらを見たり、視線を逸らしたりする。
その仕草一つひとつが、やけに気になって仕方がない。
もう少し、この距離を保っていたい——そう思ったのは、私だけじゃないと信じたい。
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