第二章 灯りの届く部屋

朝になった。


窓の外にはまだ雪が残っていて、空は灰色だった。

どこか遠くで鳥の鳴き声がしたけれど、少女――翠はその音にも反応を示さなかった。


部屋は静かだった。

カーテンの隙間から差し込む光に照らされて、白い布団の上で彼女はまばたきひとつせず、天井を見つめていた。


ドアがノックもなく開いて、悠真が顔をのぞかせた。


「おはよう」


返事はなかった。


それでも悠真は気にした様子もなく、静かに言葉を重ねた。


「……ごはん、できてるよ。食べられそうなら、来て」


翠は起き上がらなかった。

動かないまま、ただ、彼の声が消えていくのを聞いていた。


リビングに香ばしいトーストの匂いが漂っていた。スクランブルエッグとあたたかいコンソメスープ。


テーブルに二人分の食器が並べられていたが、椅子に座っているのは悠真だけだった。


しばらくすると、廊下に小さな足音が聞こえた。


翠が、ドアの前で立ち止まっていた。


「……食べられそう?」


問いかける声に、翠はわずかに目線を動かしただけだった。

黙って椅子の近くまで来て、しかし、座らなかった。


悠真は静かにうなずいて、自分のスープをひと口すすった。

それが彼の中での、“気にしていないよ”という意思表示だった。


「今日は午後からバイト。塾講師、やってるんだ。中学生の英語と数学」


話しかける声はやわらかかったが、翠の表情は変わらなかった。

食べ物にも手をつけず、壁を見ていた。


「……行ってくるね。鍵は閉めて出るけど、ポストにスペアあるから」


返事はなかった。


けれど悠真は微笑んだまま、立ち上がった。


「無理に食べなくてもいいよ。でも、あったかいうちの方がおいしいと思う」



午後、薄暗いリビングに戻ってきた悠真は、テーブルのパンがそのまま残っているのを見て、ふっと小さく息を吐いた。


部屋は出かけたときと何一つ変わっていなかった。

電気もつけられておらず、時計の針の音だけがやけに響いていた。


寝室のドアをそっと開けると、翠はベッドに腰掛けたまま、外を見ていた。

目は何も映していなかった。


「ただいま」


翠が、ゆっくりと顔だけをこちらに向けた。

無言だったが、その一瞥は確かに「反応」だった。


悠真は、少しだけ安心したようにうなずいた。



その日の夜、悠真は風呂の準備をしながら、ドア越しに話しかけた。


「お湯、ぬるめにしてるよ。入ってみようか」


返事はなかった。

だが、翠は言われるまま脱衣所に向かった。


湯気に包まれたバスルームで、悠真は一瞬、目を伏せた。


彼女の身体に残された、いくつもの痣や擦り傷。

古いものも新しいものもあった。


それを見て、「ひどいな」とか「かわいそうに」と言うことはしなかった。

その言葉では、きっと何も届かないとわかっていたから。


ただ、やわらかいタオルでそっと背中を流し、髪を洗い、湯船につからせた。


翠は、湯の温かさにも表情を変えなかった。

だがその肌は、確かに震えていた。



ベッドに入った翠は、布団を肩までかぶって横になっていた。


目は閉じられていたが、眠っているわけではなさそうだった。呼吸は浅く、肩が微かに揺れていた。


悠真はそっと電気を消して、扉の前で小さく言った。


「……おやすみ」


返事はなかった。

けれど、静寂の中で翠はまぶたを閉じたまま、微かに顔を枕に埋めるように身をすくめた。


その姿を見て、悠真はふっと微笑み、リビングに戻った。



翌朝。

小さな気配に目を向けると、翠がリビングの本棚の前に立っていた。


彼女はじっと、並べられた本を見つめていた。絵本ではなく、背表紙に漢字ばかり並んだ文庫本。


手を伸ばし、ためらいがちに一冊を抜き取る。


表紙を開いて、文字の羅列をじっと見つめる。

ページをめくる手つきは不器用で、おそらく意味もわかっていないのだろう。


「興味ある?」


悠真が静かに声をかけた。


翠は、本を持ったまま彼の方を見た。

目が合った。


たぶん、それが初めてだった。


「読んでみようか。……文字、わかる?」


翠は首を横にふった。


「じゃあ、一緒に少しずつ覚えてみよう。ゆっくりでいいから」


それに返事はなかったが、翠の手は本を強く握りしめたままだった。



夜。

静かに更けていく時間の中で、翠が布団の中でわずかに身をよじった。

うなされている――そう気づいたとき、悠真は慌てて部屋に駆け込んだ。


小さく震える肩。寝言はない。だが、眉が深く寄っていて、表情は苦しげだった。


「……大丈夫」


そっと声をかけて、ベッドのそばに膝をつく。


翠の手が、悠真のシャツの裾をきゅっとつかんだ。無意識だった。

でも、それは確かな“感情”の発露だった。


悠真はその手の上に、自分の手を重ねた。


翠のまぶたが、ゆっくりと落ちる。小さな寝息が戻ってきた。



翌朝。


食卓にパンとスープが並ぶ。

いつもの朝の風景。


悠真が冷めたスープを口に運んでいると、静かな足音が近づいてきた。


翠が、何も言わずに椅子に座った。

パンをひとつ、手に取る。そして、ゆっくりと一口――かじった。


その小さな仕草に、悠真の手が止まった。


翠が顔を上げる。ほんの一瞬、視線が交差する。


悠真は、微笑んで言った。


「……おはよう」


翠は何も言わなかった。

けれどそのまなざしは、昨日までの“無”ではなかった。


小さな一歩だった。

でも、それは確かに前に進んだ証だった。

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