小説を書き始めて3日目の初心者が語る創作論、そしてウィトゲンシュタイン
伽墨
10年後、個人的に読み返す予定の創作論
三十路を過ぎたおっさんが、夏季休暇にラップトップを開いて小説を書いている。
「おれは何をやってるんだろう」というイタさについては十二分に自覚している。三十路っていったら、もう子どもがいて、職場でもそれなりの責任ある仕事を任されて、小説なんて書いてる暇がない年のはずだろう。
だが、これをやらなければ、高校野球を見て、プロ野球を見て、ひたすらビールを飲むという、いわば脳みそを退化させ、肝臓の数値を悪化させるだけの夏休みになってしまう、という危機感が少しだけあった。
私は何かにつけてすぐ酒を飲んでしまうし、これまで何回も禁煙に失敗してきたし、根本的に我慢というものができない性格なのだろう。そんな私が3日間、小説を書き続けてみて気づいたことがある。
①核となるアイディアさえあれば、60点くらいの作品には誰でもできる。
これは書いてみて驚いたことだ。「奇跡を偽り教祖に成り上がったカルト宗教の教祖はいるけど、逆に本当に奇跡を起こしてるのに誰にも信じられない本物の救世主がいたら笑えるな」とか、「そういやトリパノソーマっていう寄生虫がいたな」とか、「ブンブン飛び回るハエが鬱陶しい」とか、「最近の夏って暑すぎる」とか、核となるアイディアというのは本当に何でもいい。しょうもないことでいい。むしろ、しょうもないぐらいが肩の力が抜けて筆が乗るのかもしれない。
②0点から60点へのジャンプは意外とあっさりできるが、そこから80点に近づけようとすると難易度が爆上がりする。
これも書いていて分かったことだ。ここでいう点数というのはあくまで私の中における相対評価なので、自画自賛しているわけではないことをご承知おきいただければと思う。自分で読んでいて「しょうもないな」という段階から「まあ形になったじゃん」という段階まではあっという間にたどり着けるのだが、そこから「自分にしてはよく書けたな」と思えるまでが、とにかく長いのだ。
③小説を書くのは「好きじゃなきゃやってられない」作業である。
ここでいう「好き」というのは、やりたい!という前向きな、ポジティブな気持ちというわけではない。例えるなら、電車の中で暇つぶしにスマホのゲームをぽちぽちやる、程度の「好き」だ。つまり、やっていて苦じゃないということが大切なのだと思われる。もし小説を書いていて苦しいとか、もうやりたくないとか思ったら、そのときはあっさりやめて別のことに没頭すればいいのだろうと思う。まあ、かくいう私はまだ小説書き始めて三日目の初心者なので、何を偉そうにというご批判は甘んじて受けよう。
④創作とは、時間を湯水のように注ぎ込む行為である。
調子がよかったら10分や20分で2000文字ぐらい書けるのだが、何も思いつかないときは1時間経ってもカクヨムの空白なままの画面とにらめっこしていたりする。何かに取り憑かれたかのように没頭することは、おそらく小説を書くという創作においては避けては通れないのかもしれない。
⑤文章の読み書きができても、それはあくまで“断片”の話に過ぎない。断片をつなぎ、溶かして形にする作業こそが一番難しい。
小説を書くという作業とは、おそらく8割か9割はこの作業に時間がかかっているのだ。断片を書き溜めておくと、そのうちの8割ぐらいは何も面白くない文字の羅列でしかないのだが、残りの2割に光るものを感じ取り、それらを並べ替えたりちょっといじくったりして、何とか形にするという工程がある。ここがおそらく「本文を書く」という段階なのかもしれない。
——そして、創作にはもう一つの効用があると知った。それは「内省」だ。
自分の知っていること、感じていること、考えていることを総動員して文章にするうちに、過去の自分、今の自分、未来の自分と嫌でも向き合うことになる。「漫画家になりたかったら漫画ばかり読んでいては駄目だ」というのをどこかで見聞きしたことがある。多分小説もそうなのだろう。いろんなインプット、それは文章という形に限らない。子どもの頃プールで泳いでたときにこぽこぽと水に包まれる感覚が不思議だったなとか、昔読んだハリー・ポッターシリーズに、アンブリッジ先生という性根の腐ったキャラクターがいたなとか、そういう断片が生きていれば誰にでもあるはずだ。それらを思い出し、感じ取り、文字に落とし込む。そのうち「あの頃は楽しかったな」とか、逆に「あれはしんどかったからもう二度とやりたくない」とか、小説そっちのけで内省にふけってしまうのである。
そんなとき、ふとウィトゲンシュタインが頭に浮かんだ。
前期ウィトゲンシュタインは、私の何倍も、何十倍も時間をかけて、かの有名な一節「語り得ぬものには沈黙せねばならない」に辿り着いたのだろう。彼の自問自答の数々はもはや哲学書という範疇を超えた一つの芸術作品だと思う。だって、普通に生きてたら「世界は事実の総体である」とか「言語の限界はどこなのか」とか、考えないことだろう。警句のごとく断言された数々の節は、哲学的な意味はさておき、これ以上ないぐらいクリアな詩だなと解釈しても、まあ怒られはしないだろう。
小説を書くことも、どこかしら共通点があるなと思った。言葉で語り得るものを探し続け、そしてどこかで「これはもう言葉では届かない」と悟る。その輪郭をどこまで捉えきれるのか。そういう答えのない自問自答を繰り返していく作業、それが小説を書くということなのかもしれない。
三十路過ぎの、普段の楽しみといったら酒とタバコと野球中継ぐらいしかないつまらない男が、夏休みにたまたまPCを開いて文字を打ち始めたら、いつのまにかウィトゲンシュタインの背中を追っていた。
創作とは、語れるものの限界を探す旅であり、時には語り得ぬ沈黙をも抱きしめる作業。これが今のところの結論である。
小説を書き始めて3日目の初心者が語る創作論、そしてウィトゲンシュタイン 伽墨 @omoitsukiwokakuyo
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